縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6500年前(紀元前145世紀)から約3000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。「縄文」という名称は、エドワード・S・モースが1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。この用語は矢田部良吉により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたけど、その後、白井光太郎が「縄紋土器」と改めた。そして、「縄文土器」へと続いてきた(佐 原真1993)。「縄文土器」とは、「縄文」という撚り紐(よりひも)を土器の表面に転がしてつけた文様が多くみられるので、そのように呼ばれるようになった。「縄文時代」という名前は、「縄文土器が使われた時代」として名付けられた。「縄文時代」は、日本の新石器時代であるとよく言われる(戸訳 充則 2002)。
縄文人は勿論「狩猟採集民」である。また、縄文人は、「定住生活」をしていたか否かと、問われれば、「定住生活」をしていたと答えて、間違いがない。でも、なぜ縄文人は定住生活を始めたのか。
確か、土器が現れるのは人類が文明に向かっている象徴的な事件である。土器の発明は縄文時代の生活を決定的に変化させた。土器によって、炒める、煮る、蒸すなど新しい料理を作り方が加わることで、食生活を大変に変革させた。そのため、食料の種類を豊かにした。狩猟採集民が、定住生活を始めるにあたって、植物栽培や家畜の飼育が、大きな要素となることだ(ジャレド ダイアモンド 2000)。当時の縄文人がまだ本格的に耕種できなっかたけれど、もう簡単な植物を植えられるので、ある程度に狩猟や採集の生存の方法を振り捨てた。また、貯蔵穴の出現し、食料を保存ができて、定住生活を可能にした(能登 健 2011)。
それで、縄文早期には定住集落が現した。その時の縄文人は竪穴(たてあな)に住んでいた。竪穴とは、地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建て、梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、葦などの植物で屋根を葺いた建物である(能登 健 2011)。特に、縄文中期になって、約7000年前、定住の群体が増えた。相対的に安定な生活は集落が続いて拡大を助力した。元数十人の群体は少しずつ数百人の集落に発展した。1972年に群馬県の三原田遺跡が発掘され、縄文中期の300軒以上におよぶ竪穴居住跡が見つかった(能登 健 2011)。そして、また一つ大きい縄文中期の集落-三内丸山遺跡が今の青森県で発見された。この集落が最盛期の縄文時代中期後半には500人の居住者がいた。大体現在の視点から見れば、この集落は非常に小さくて、しかし、この遺跡は人類の発展史の上で約1500年にわたって継続した(岡村 道雄 2000)。
その他、日本の北部や西部でも縄文時代の定住集落が見つけられた。だが、縄文時代に現したそのような定住や植物栽培の形跡は、その時の縄文人がもう完全的な定住生活すると説明することができるわけではない。彼らの生活は依然として狩猟採集を主として、簡単な植物を植えるような農業行為に伴っているけど、彼らの生存や生活が自然環境の影響を受けるのはまたとても大きかった。縄文時代は、つまるところ狩猟採集の遊動生活から初歩的な定住の農業社会の生活に進むの過渡期である。だからこそ、縄文時代の人類は恒久的に定住する訳がなくて、ただ相対的に長期的に固定なところに定住するものだ。というのは、「半定住」だった(瀬口 眞司 2009)。
縄文時代に、内陸に定住している人と海岸に定住している人の生活様式はやはり違う。海岸に住んでいる縄文人はもう海洋資源を利用し始め、魚類、海藻や貝殻類が全部彼らの主な食料になった。やはりその時の縄文人は海岸に定住することに願うだろう。漁業や航海技術もその時に快速発展された。同時に、原始的な宗教の儀式、トーテム崇拝や巫術は信奉が現れた。これらは全てその後の社会の階層と地位の等級の発生と発展に役立っていた。人類史は新しい一頁を書きそえた。
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