要旨:玄界灘沿岸に出現した弥生時代初期文化は、ムナカタにも及んでいる。この地域は、初期青銅器のうち稀有な舶載青銅武器が限定して流入しているが、初期青銅武器の製作・研磨技術がないことから、武器の折損や刃こぼれなどの使用痕跡が残り、戦闘・祭祀の模擬戦が推測できる。沖ノ島出土銅矛は、その形態から北部九州製であり、武器形青銅器が集中するムナカタ地域の青銅器文化を熟知する必然性がある。「イト国」・「ナ国」に元始王権が出現した以後は青銅器製作が緩和されることから、ムナカタ地域でも青銅器を製作し、以東地域に搬出される。この北部九州系青銅器の東漸にムナカタ一族が深く関与する。
キーワード:ムナカタ、青銅器祭祀、元始王権、沖ノ島、北部九州の東漸
1.はじめに
宗像市沖ノ島では弥生時代の遺物が若干発見されている。その中で重要なのが戦時中に発見された銅矛であるが、銅矛は現在も山形県在住の個人所有で、今回の交渉でも未公開状態が継続しているので、実測・写真撮影ができなかった。
沖ノ島から最短距離にある九州本土は宗像市であり、行政的にも宗像市に属する。沖ノ島出土銅矛を理解するには、この宗像地域の弥生青銅器の実態を熟知しなければならない。これまでに宗像地域の青銅器が集成されたことはある(花田1993、安部1993・1997)が、残念なことに型式分類など弥生時代青銅器研究の現状を把握されていないことから、拙稿以前の青銅器研究のなかでは地域性を語ることができない(柳田1986~2011)。
したがって、先に糟屋以東の玄界灘から響灘沿岸の主な青銅器出土遺跡の概要を紹介し、新しい弥生青銅器研究のもとでムナカタ地域の青銅武器と青銅器祭祀の特質を探りたい。
詳細はここ
2014年11月23日日曜日
2014年11月16日日曜日
【歴史】日本人の起源と系統について 2
三津永田遺跡と山口県土井ヶ浜遺跡の弥生人に近い形態とDNAを持った人骨が中国江南から発見された。中橋孝博氏は1994年、上海自然博物館で長江北岸の揚州市の前漢墓から発掘された骨が、北部九州の甕棺から出土する弥生人骨にあまりにも似ているので驚いたという。ミトコンドリアDNAの分析でも、北部九州弥生人と同じ塩基配列を持つ個体が春秋時代の遺跡で見つかったという。新モンゴロイド的特徴を持った集団が江南にもいたことになる。
この発見で、三津永田遺跡と土井ヶ浜遺跡の弥生人は中国江南に原郷を持つ集団である可能性が出てきた。中国江南は倭人の故郷といってもよいところであり、彼らは倭人の生活環境を持ちながら北方の新モンゴロイド的特徴を持っていたことになる。この発見により、三津永田遺跡と土井ヶ浜遺跡の弥生人を、北東アジアで寒冷適応し朝鮮半島に南下し、さらに日本列島に渡来した新モンゴロイドだと限定できなくなり、新モンゴロイド的特徴を持った集団には、大きく分けて、倭人系と北東アジア系の2種類があったと考えなければならなくなった。中国江南は春秋時代から長江をはさんで、北方系と南方系とが交錯していたといわれており、北方系と南方系の文化・種族の混合・混血も盛んに行なわれていたと想像される。
倭人系にも、南方系と新モンゴロイド的特徴を持った北方系の二つの系統考える必要が起きてきたのである。
三津永田遺跡と土井ヶ浜遺跡の弥生人について、九州倭人社会の中に北東アジア系の集団がいくつかあったのだ、という見方もできるが、九州、山口県西部で発見されているの弥生人骨は中国史書が書く倭人の時代のものであり、弥生人骨の多くは倭人と呼ばれた人たちのものとみられるのである。そうすると新モンゴロイド的特徴を持った倭人の存在はやはり否定できないものとなる、というよりも日本列島に渡来した多くの倭人は新モンゴロイド的特徴を持っていた、と考えなければならなくなるのである。
しかし倭人は、中国史書などには南方的要素を強く持った人として描かれている。『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」(『魏志』倭人伝)には
夏后少康之子封於會稽、斷髪文身以避蛟龍之害。今倭水人好沉没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。
「夏后少康之子が長江下流域南部の會稽に封ぜられた時、斷髪文身をして蛟龍の害を避けた。今倭の水人は好んで潜って魚や蛤をとるが、同様に文身して大魚や水鳥の危害をはらっている。・・・」と書かれ、長江下流域南部の風習と日本列島の倭人の風習との関係の深さを示唆している。
鳥越憲三郎氏の中国江南地域の現地調査によっても、『魏志』倭人伝に記録されている「貫頭衣」の存在が確認されており、そのほかにも高床式住居・鳥居など、倭人の文化・風習の江南的要素が指摘されている。
彼らは倭人と呼ばれ、倭人の風俗風習を持っていた。その後も中国史書は『旧唐書』(『新唐書』にも一部ある)まで、倭人と倭人の国・倭国を書き続けた。確かに彼らは倭人だったのである。倭人は北方系の新モンゴロイド的形質を持ちながら、南方系の風俗風習を持っていたことになる。このこともわすれてはならない。
この倭人の北方系、南方系というのは中国における系統であり、現代日本人が北東アジア系であるのとは基本的に異なる。倭人と日本人は一つの系統ではつながらない、ということにも注意が必要である。
中国・朝鮮半島・日本で発見された古代人骨について、人類学者が調査し見解を述べたものがある。それをまとめたものが表1日本人の系統-中国・朝鮮半島・日本の古代人-である。また朝鮮半島と日本の水稲・青銅器にはどのような関係があるのか、それをまとめたのが表2水稲と青銅器-朝鮮半島と日本-である。この二つの表から、江南の倭人と北東アジア系の人たちがどのようにして日本人になっていったのか、考えてみたい。
表1をまとめると次のようになる。
■中国
古代人の身体的特徴は同じ地域の場合、時代による違いはさほどみられないが、長江の北と南、あるいは長江の中流域と下流域というように、地域が異なるとその特徴に違いが現われてくることがわかる。しかし前漢時代までには、江南地域の人たちも華北人的特徴を持ったとみられる。
長江の北側の中流域から下流域は北方系であり、その度合いは北に行くほど強い。北部九州・山口県西部に渡来した人たちの祖系集団は、黄河中・下流域を中心として山東半島から淮河・長江下流域にかけての青銅器時代人にあてることができる。長江中流域より上流の人たちは華南系が強く、長江下流域の南側の人たちは華北人とは異なるが、在来系弥生人より北部九州・山口県西部へ渡来した人たちに近い人たちである。
■朝鮮半島
紀元前1000年頃、半島の南部に住んでいた人たちと東北部に住んでいた人たちとは、その身体的特徴がまったく異なっており、南部の人たちは縄文人的特徴を持ち、東北部の人たちは高顔・高身長の北部九州・山口県西部の弥生人に近い特徴を持っていた。その間の中部の遺跡からは炭化米が発見されているが、それは畑作の米とみられる。
紀元前8~4世紀頃の半島南部では、松菊里遺跡から遼寧式銅剣が発見され、また無去洞玉峴遺跡からは水田跡が発見され、畑作農業に水稲農業が加わった状況がみられる。
弥生時代末から古墳時代にかけての半島南部の人たちの身体的特徴は北部九州・山口県西部の弥生人に似ている。
■日本
縄文時代晩後期から弥生時代早期の菜畑や板付などの遺跡から水田跡が発見されたが、これとほぼ同じ時代の新町や大友などの支石墓に葬られた人たちは、北部九州・山口県西部の弥生人の特徴は持たず、縄文人的だった。
吉野ヶ里遺跡の甕棺から出土する絹は、弥生時代前期初頭のものは四眠系蚕(淮河以南の華中・華南の蚕)で、華北・朝鮮半島特有の三眠蚕は中期後半から現われる。
北部九州・山口県西部の弥生人は高顔・高身長を特徴とする中国北部や朝鮮半島の新石器時代人につながる可能性が高い(北部九州・山口県西部の弥生人と朝鮮半島の新石器時代人とは別系統ではないか、と私はみている)。
また表2をまとめると次のようになる。
●朝鮮半島
紀元前8世紀頃中国東北部から遼寧式銅剣が朝鮮半島北部に流入する。
松菊里遺跡から炭化米が出土する。半島中部の欣岩里遺跡、北部の南京遺跡からも炭化米が出土したが、畑作の米である。
●日本
青銅器最古の鋳型は北九州市松本遺跡のもので、弥生時代前期末に上る可能性があるが、青銅器生産の開始時期は中期前葉からである。 弥生時代前期末に北部九州に持ち込まれた金属器は、中国東北部に起源を持つ朝鮮青銅器文化の一要素だった。
水田遺構は縄文時代晩期終末までさかのぼる。 松菊里遺跡から出土した石包丁や磨製石斧は菜畑遺跡のそれによく似ている。水稲は江南から山東半島を経由して朝鮮半島西南部に伝わり、それに北部からの畑作の米や雑穀などが加わり、九州北部へ伝来したと考えられる。
これらをさらにまとめると次のようになる。
① 北部九州・山口県西部へ渡来した弥生人は、黄河中・下流域を中心として山東半島から淮河・長江下流域にかけて居住していた人たちに似ている。
② 紀元前1000年頃の朝鮮半島東北部には高顔・高身長の北部九州・山口県西部の弥生人に似た人たちがいたが、南部には縄文人的特徴を持った人たちがいた。
③ 紀元前8世紀頃、中国東北部から朝鮮北部に遼寧式銅剣が流入した。
④ 紀元前8~4世紀頃、朝鮮半島南部で畑作農業に水稲農業が加わった。松菊里遺跡から炭化米が出土し、その石棺墓には遼寧式銅剣が埋葬されていた。
⑤ 縄文時代晩期~弥生時代早期(紀元前5~4世紀頃)、九州北部に水稲農業が始まった。
⑥ 中国東北部に起源を持つ朝鮮青銅器は、弥生時代前期末頃(紀元前200~100年頃)北部九州に持ち込まれた。
⑦ 吉野ヶ里遺跡出土の絹は前期初頭のものは華中・華南の四眠蚕で、華北・朝鮮半島特有の三眠蚕は中期後半からである。
⑧ 弥生時代末から古墳時代にかけての朝鮮半島南部の人たちは、北部九州・山口県西部の弥生人に似ている。
ここで①~⑧について少し説明を加えておく。
①について
北部九州・山口県西部へ渡来した弥生人は、これまで高顔・高身長の北東アジア系とみられていたが、それとは別系統の江南系の可能性も出てきた。
②⑧について
紀元前1000年頃、朝鮮半島東北部には北東アジア系とみられる人たち、南部には縄文系の人たちがいたが、弥生時代末から古墳時代になると、南部も北東アジア系の人たちになっていた。
④⑤について
朝鮮半島南部の水稲農業は、遺跡から発見される炭化米の分析結果などによれば、江南から山東半島を経て朝鮮半島西南部へ伝わっものとみて間違いない。
九州北部への水稲の伝播ルートは、朝鮮半島西南部経由ルート以外のルートも考慮する必要がある。
③⑥について
青銅器は中国東北部から朝鮮北部に紀元前8世紀頃流入し、半島を南下していったが、九州に持ち込まれたのは弥生時代前期末である。水稲が九州北部に伝わった時期よりも200~300年ほどあとになる。
松菊里にはすでに遼寧式銅剣があった。したがって、九州北部に最初に伝わった水稲が松菊里など朝鮮半島西南部からのものだったとすると、その水田跡とともに遼寧式銅剣が発見されても不思議ではない。しかしそれは発見されていない。九州北部に最初に伝わった水稲農業は朝鮮半島経由ではない可能性がある。
⑦について
北部九州の、一般に渡来系弥生人と呼ばれている人たちの遺跡とされる吉野ヶ里遺跡には、弥生時代前期初頭には江南から来た弥生人、中期後半には北東アジア系の弥生人がいたと考えられる(三眠蚕と四眠蚕から)。
さて①~⑧からはどのようなことがわかってくるのだろうか。そこから読み取れるものを次に挙げてみる。
A 縄文時代晩期~弥生時代早期に九州北部に水稲農業を伝えたのは江南系の人たちだった。
B 弥生時代前期末に日本列島に青銅器を持ち込んだのは北部九州・山口県西部に渡来した弥生人だった。
C 北部九州・山口県西部の弥生人に似た人たちは江南にもいた。
D 北部九州・山口県西部の弥生人は朝鮮半島から青銅器と水稲を携えて渡ってきたと考えられ、この人たちと江南の人たちが似ているということは、江南から山東半島・朝鮮半島西南部、さらに北部九州・山口県西部にかけて、これらの人たちは均質だった、ということである。
E 紀元前1000年頃の朝鮮半島南部には縄文系の人たちが住んでいたが、紀元2~3世紀頃にはすべて北部九州・山口県西部の弥生人に似た人たちなっていた。
これによると、九州北部に最初に渡来した人たちは江南系の倭人であり、その次に渡来した人たちは青銅器文化を身につけた、江南系の倭人だったか、あるいは朝鮮北部から青銅器文化を携え西南部で水稲耕作技術を身につけた北東アジア系の人たちだった、とみることができる。
紀元前8世紀頃から、朝鮮北部には、青銅器文化を持った北東アジア系の人たちがいたことは確実であり、数世紀遅れて、西南部には水稲耕作技術を持って江南から渡来した人たちがいたことも確実であり、縄文時代晩期には、朝鮮半島南部はこれらの混合文化になっていたと思われる。
ここで考えなければならないのは倭・倭人・倭国という呼名である。『漢書』地理志の「樂浪海中有倭人」から始まって『新唐書』の「日夲古倭奴也」まで、「倭」という字は使われ続けた。「倭国」「倭奴国」は当然「倭人の国」を意味している。
三津永田や土井ケ浜の弥生人は、九州北部に青銅器が持ち込まれた時期以後の人たちである。この人たちが朝鮮半島から渡来した人たちだとすると、彼らは朝鮮半島南部で青銅器と水稲の二つの文化が融合した文化を持つ人たちだったことになる。
青銅器文化を持つ人たちも水稲耕作技術を持つ人たちも、その身体的特徴は似ていたため、混血後もその形質はほとんど変らなかったはずである。問題は、日本列島に渡来した人たちはどちらの血が濃かったのか、ということだろう。それが「倭・倭人・倭国」という呼名に関わったと私は思う。
私は倭国は九州島だったと考えており、九州には倭人、つまり江南系の血を強く引いた人たちが渡来し住みついたことにより、その名がついたと考えている。九州北部に最初にたどり着いた水稲耕作技術を持った人たちは、江南あるいは山東半島から直接渡来した倭人だったのではないかと推測する。その後、弥生時代前期末頃から青銅器と水稲文化をもつ人たち(新モンゴロイド的形質を持った倭人)が渡来するようになり、弥生時代中期後半頃(紀元前後)から次第に、その中でも朝鮮半島北部からの、北東アジア系の血を濃く引く人たちが多く渡来するようになったと考えられる(三眠蚕から推測。しかし九州は倭人社会)。
「倭・倭人の国」は紀元前後頃までにはすでに確立され、北東アジア系の血を濃く引く人たちが多く渡来しても「倭・倭人の国」の優位は動かしえなかった(「漢委奴国王」印により確かめられる)。だから、九州は倭国として七世紀まで存続することができ、「やまと」に移り住んだ倭人は「倭」という字を「やまと」と読んだのである。「やまと」になぜ「倭」という字が使われたのか、それはこのように解釈することによって初めて理解できる。「倭人」でないものに「倭」はつかないのである。
北部九州・山口県西部へ渡来した弥生人は高顔・高身長であるが、『魏志』倭人伝、『後漢書』などによれば彼らは「倭・倭人の国」の人たちだった。これらの人たちを「倭人」と言い切れるかどうかはわからないが、「倭人の国」の一員であったことには間違いない。
私はこれまで、北部九州・山口県西部へ渡来した弥生人を北東アジア系ではないかと考えていたが、彼らが「倭人の国」の主役だったこと、長江下流域から山東半島・朝鮮半島西南部さらに北部九州・山口県西部にかけての人たちが均質だということなどから、「(中国)北方系の形質を持ちながら、倭人の系統を引く人たち」ではないかと、現時点では考えている。その後時代とともに朝鮮半島北部から北東アジア系の人たちが南下し、さらに高句麗・百済など北方を起源とする国が誕生し、朝鮮半島から倭人系の人たちは姿を消し、次第に本土日本も北東アジア系の強い、韓国と遺伝距離ゼロの国になっていったのである。
私のこの考え方は、いわば弥生人の二系統論である。二系統論といえば、金関丈夫氏の「渡来人二系統論」がある。それは次のようなものである。
縄文晩期、朝鮮半島北部の櫛目文土器時代人が北部九州・山口地方のごく限られた地域に、水稲を持って渡来した。この人たちは数が少なかったため縄文人に吸収された。これに遅れて、弥生・古墳時代を通じて渡来した人たちがいた。この人たちは畿内に到着し、畿内住民の体質を一変させた。
池田次郎氏はこの説について、「今ではそのまま通用しなくなっているが、渡来人の系統は単一ではなく、系統の違う集団が別々の時期に渡ってきたと考えるのがむしろ自然である」という主旨のことを述べ、二系統の渡来人を認め、池田氏自身は次のように述べている。
初期の渡来人は、華北との結びつきの強い遼寧青銅器時代人の影響を受けた朝鮮半島南部の無文土器時代前半の人たちであり、前期末の渡来人は、中国東北地区北部の青銅器時代人的特徴の強い北部の無文土器時代後半の人たちだった。
池田氏の説では、初期の渡来人は、遼寧青銅器時代人の影響を受けた朝鮮半島南部の無文土器時代前半の人たち、となっているが、この人たちが青銅器文化を持っていたかどうかは、青銅器が発見されていないためわからない。現時点における資料からみれば、彼らは青銅器を持たないが水稲耕作技術を持っていたのだから、江南あるいは山東半島から直接九州北部に渡来したと考えるのがよいのではないか。
前期末の渡来人についても、それが中国東北地区北部の青銅器時代人的特徴の強い北部の無文土器時代後半の人たちだったとすると、「倭人の国」である「倭」「倭国」の存在の説明が難しくなる。この時期はまだ、中国東北地区北部の青銅器時代人的特徴の強さはそんなに大きくはなかったと考えざるを得ない。
中国東北地区北部の青銅器時代人的特徴が強くなるのは、吉野ヶ里遺跡出土の三眠蚕の絹から推測すれば、弥生時代中期後半頃(紀元前後)からと見た方がよいのではないだろうか。しかしその頃は九州北部ではすでに倭人の国はある程度固まっており(「漢委奴国王」印が証明している)、北方起源の青銅器時代人は最初のうちは倭人の中に溶け込みながら力を蓄えていたか、九州北部以外の地に移って行ったのではないかと推測する。
弥生人というと、倭人という言葉を使いながら、北東アジア系の形質を持った人たちをイメージする人が多い。しかもその矛盾に自身気がついていない。弥生人には二系統あった。そう考えれば矛盾は起こらない。北からだったのか、それとも南からだったのか、どちらか一方に決める必要はまったくない。
私がいう二系統とは、二系統とも北方系を強く意識した金関丈夫氏や池田次郎氏の二系統論とは異なり、北(中国東北部から青銅器文化を継いだ人たち)と南(倭人)の二系統である。北と南の二系統を考えることにより、弥生人の、倭人と北東アジア系に関わる矛盾は解消できるのである。
中国史書に記録された「倭・倭人・倭国」は九州に倭人がいたことを示している。倭人の原郷は鳥越憲三郎氏の実地調査などによれば江南に求めることができる。弥生人の一系統とは江南の倭人である。
青銅器が中国東北部→朝鮮半島北部→朝鮮半島南部→九州北部と流入し、九州で青銅器生産が始まったことはその人たちの渡来も当然考えなければならない。朝鮮半島南部には水稲農業をおこなう人たちがおり、両者は文化融合や混血をしたと思われるが、この北方からの青銅器文化を持った人たちが弥生人のもう一つの系統である。
弥生時代の幕開けは江南の倭人によってなされ、その後、江南で中国北方系と混血した倭人や、山東半島、朝鮮半島西南部に渡り、青銅器時代人と混血しながらも倭人の系統を引く人たちが、水稲と青銅器文化を伴い北部九州・山口県西部に渡来した。そしてその後、青銅器時代人的特徴の強い北東アジア系の人たちが渡来した。当初は倭人系の強い、そして徐々に北東アジア系の強い人たちが日本列島に渡来してきたことになる。
ここで縄文人について少し述べておきたい。私は縄文人は朝鮮半島を経由して九州・本州へ渡ったとみている。紀元前1000年頃、朝鮮半島南部には縄文人的な身体特徴を持った人たちがいた。これは日本列島の縄文人との関係で考えることができる。その後朝鮮半島は、江南、山東半島、中国東北部、朝鮮半島東北部の新モンゴロイド的特徴を持った人たちの流入により、徐々に彼らにとって代わられていく。縄文人は、日本列島への渡海を余儀なくされたのではないだろうか。支石墓人はこれらの人たちの文化的影響を受けた、縄文人の一構成集団だったかもしれない。
渡来系弥生人、北部九州・山口県西部の弥生人あるいは青銅器時代人などと呼ばれる人たちは、高顔・高身長・のっぺり顔など北方系が強いとされてきた。そしてこれらの人たちは、古墳人、現代日本人につながるとみられてきた。しかし日本の歴史の前には倭国の歴史があり、倭国とは「倭人の国」であり、倭人の存在を無視して日本人を語ることはできない。江南にも北部九州・山口県西部の弥生人に似た人がいることがわかった以上、これらの弥生人に、江南の倭人の可能性を考える必要がある。「倭人」を曖昧にしてはいけない。
私自身も倭人の身体的特徴を、北方系の特徴とはまったく異なるものと勝手に思い込んでしまっていた。だから江南にいた北方系の形質を持った人たちは倭人とは無関係だと考えていた。しかしそうなると、九州北部の倭人の存在をみつけることができなくなってしまい、『魏志』倭人伝などの文献に矛盾してしまうことになった。江南の倭人は中国北方系の人たちとの混血により、北方系の形質をすでに得ていたと考えなければつじつまが合わなくなったのである。倭人も北方系の形質を持っていたとするならば、それに続く北東アジア系の人たちの渡来を考えると、現代日本人が北東アジア系の形質を強く持つ集団であるというのは十分頷けるところである。
※身体的特徴やDNAから日本人の起源と系統を探る研究においては、新しい資料が追加されることにより、見方・考え方が変わる可能性があることを付け加えておきます。
※訂正・修正 2009.07.20
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| 凡例 | |
| 中国 | |
| 朝鮮半島 | |
| 日本 |
| 時代 | 場所 | 概要 | 人体特徴 | 遺伝子・その他 |
| BC3000年頃 新石器 | 圩墩(長江下流南岸) | - | 渡来系弥生人と遠く離れる。縄文人とも同時代の華北人とも大きく異なる特徴。しかし縄文人・在来系弥生人よりも渡来系弥生人に近い。江南地方の住民は遅くとも前漢時代までには華北集団の影響を受けて渡来系弥生人的特長を獲得したと考えられる(池田)。 縄文人・華北人とも大きく異なる特徴を持つ。抜歯風習も一風変っている。(中橋) | - |
| ~BC1000年 櫛目文土器時代 | 煙台島(半島南部島海) | 縄文人的特徴は潜水漁法に原因か。(池田) | 縄文人に似ている。(池田) | 縄文前期に当たる南部の櫛目文土器時代人の特徴は高身長を除けば縄文後晩期人。(池田) |
| BC1000年前後 櫛目文土器時代 | 雄基松坪洞・会寧鳳儀・羅津草島(朝鮮東北部咸鏡北道豆満江河口) | 北部九州・山口の古墳人、南九州平野部古墳人、礼安里胡文人と近い関係。(池田) | 高顔・高身長、鼻根部の隆起弱い。頭蓋計測値の図では北部九州・山口の弥生人に最も近い。(池田) | 縄文後晩期に当たる北部の櫛目文土器時代人はその特徴を北部九州弥生人と共有。金関丈夫はこれを渡来系弥生人の母体とみる。弥生時代前期後半から中期初頭にかけて北部九州・響灘沿岸に到着。(池田) |
| 殷・周 | 安陽市殷墟(黄河中流域河南省) | - | 頭蓋計測値は、黄河下流域の新石器時代人と華北現代人に近い。渡来系弥生人とも近い。(池田) | - |
| 西周 | 長陽(長江中流域) | - | 華南の新石器時代人や現代人に類似し渡来系弥生人とは異なる。(池田) | - |
| BC14~BC10世紀 | 欣岩里(中部京畿道驪州) | 炭化米その他の穀物。米は畑作と考えられる。石包丁は半月形で松菊里とは異なる。(早乙女) | - | 畑作稲の伝播ルートは遼東半島ルート、大陸伝いルートの可能性が高い。(早乙女) |
| BC13~BC9世紀 | 南京(平壌市) | |||
| BC8~BC5世紀 | 無去洞玉峴(慶尚南道蔚山市) | 水田跡。北部九州最古期の水稲遺跡菜畑・曲り田と酷似している。ジャポニカ米。(中橋) | - | 甲元眞之は畑作農耕に水稲農耕が加わり始めた状況が見て取れるという。(中橋) |
| BC5~BC4世紀 | 松菊里(半島西南部) | 石棺墓に遼寧式銅剣が副葬されている。石包丁・磨製石斧の形式は菜畑遺跡のものによく似ており、その推定年代は菜畑より100年ほど前のBC600年前後である。(池田) | - | - |
| 春秋 | 梁王城(江蘇省、長江・淮河) | 新石器時代以後に長江下流域の住人形質に大きな変化が起こり、遅くとも春秋戦国時代になると、この地域にも北部九州弥生人によく似た特徴を持つ人々が住み着いていた。(中橋) | 上顎側抜歯。土井ケ浜の弥生人の抜歯風習が似ている。(中橋) | 北部九州弥生人と同じ塩基配列のミトコンドリアDNAを持つ個体が二体見つかる。(中橋) |
| BC5~BC3世紀 春秋末~戦国後期 | 平洋(黒竜江省北部) | - | 高身長、高顔、鼻根部平坦。新石器時代人としてはザバイカルに最も近く、朝鮮半島北部にも近いが華北とは遠い。(池田) | - |
| 遼西・遼東地区 | - | 遼東の廟後山人は北方モンゴロイドと華北の現代人の特徴を合わせ持ち、黄河中・下流域の新石器時代人に近い。(池田) | - | |
| 戦国~前漢 | 山東省臨淄 | - | 松下孝幸らの調査:臨淄人は華北の中国人、韓国・朝鮮人に近く、北方モンゴロイドとは遠く離れる。華北・東北部のグループに属し、渡来系弥生人や安陽人など中国の青銅器時代人に最も近い。北部九州・山口地方へ渡来した人たちの祖系集団の最有力候補は黄河中・下流域を中心として山東半島から淮河・長江下流域にかけての青銅器時代人にあてることができる。(池田) | - |
| 縄文晩期後葉~弥生 | 菜畑(唐津市) | 山ノ寺式土器含有層から水田跡。縄文の漆製品とは異なるものが混在、前期のうちに弥生漆が主流となることが指摘されている。岡田文男や本田光子らは戦国時代長江流域の楚の製品に酷似しているという。(中橋) | - | 日本で最初に水田耕作を始めたのがどういった人たちだったのかは不明。北部九州の人骨は弥生前期末に甕棺が広がりだしてからのもの。水稲耕作を主生業とする渡来人がまず北部九州に定着し、在来の縄文系住人と遺伝的な交流を経て急激に人口を増やしながら弥生社会を作り上げていった、と考える。(中橋) |
| 曲り田(福岡県二丈町) | 山ノ寺式期。菜畑、板付と類似の水田跡(中橋・池田)。鉄製の斧出土。(池田) | - | ||
| 長行(福岡県) | 鉄製の斧出土。(池田) | - | ||
| 板付(福岡市) | 夜臼式土器出土層から水田跡、炭化米などが発見される。環壕も発見される。(中橋) | - | ||
| 野多目(福岡市) | 菜畑、板付と類似。 | - | ||
| 弥生早期(夜臼式土器段階) | 新町(糸島半島) | 支石墓。朝鮮南部に同系統の支石墓多数。壺にモミの痕。しかし水稲耕作に適した平地を持たない。半農半漁の人たちとみられている。(中橋) | 支石墓から人骨出土。縄文人によく似た形態。縄文人そのもの。縄文人によく似た抜歯風習(中橋)。 新町人骨の特長には渡来形質の片鱗さえ認められず、抜歯様式も西日本縄文人の様式を踏襲しているという。(池田) | - |
| 大友(佐賀県呼子町) | 朝鮮半島に由来の墓に縄文人に似た形態と抜歯風習を持った人々が埋葬されていたことが明確となる。(中橋) | |||
| 宇久松原(五島列島宇久島) | 新町・大友遺跡に同じ。 | - | - | |
| BC3~BC2世紀 前漢 | 揚州市胡場(長江下流北岸) | 梁王城の項に同じ。 | 北部九州の甕棺出土の弥生人によく似ている。抜歯形式でも土井ケ浜に似ている。(中橋) | - |
| 前漢 | 江陵(湖北省) | - | 華南の新石器時代人や現代人に類似。渡来系弥生人とは異なる。(池田) | - |
| 弥生初頭 | 今川(福岡市) | 発見された青銅器は朝鮮半島からの一時的なもの。その後金属器の流入はしばらくの間途絶える(池田)。 | - | - |
| 弥生初期 | 雀居(福岡市) | 縄文の漆製品とは異なるものが混在、前期のうちに弥生漆が主流となる。岡田文男や本田光子らは戦国時代長江流域の楚の製品に酷似しているという。木製農機具、大陸系の石器などが出土。(中橋) | 前期中頃、土壙墓から支石墓の人骨とは異なる、扁平な顔で長身の女性人骨。しかし縄文後・晩期の人たちや新町の支石墓人骨と同形式の抜歯がある。(中橋) | - |
| 弥生前期初頭~ | 吉野ヶ里(佐賀県) | 布目順朗により、甕棺から出土した前期初頭の絹は四眠系蚕(淮河以南の華中・華南の蚕)の繊維の太い南蚕で、華北・朝鮮半島特有の三眠蚕は中期後半から現われ始めることが明らかになった。(中橋) | - | 日本列島への渡来人と関係が深いのは、おそらく中国東北部の森林地帯に住み、やがて朝鮮半島に南下したツングース系の人々だったといわれる。(埴原) 初期の渡来人は華北との結びつきの強い遼寧青銅器時代人の影響を受けた朝鮮半島南部の無文土器時代前半の人たちであり、前期末の渡来人は中国東北地区北部の青銅器時代人的特徴の強い北部の無文土器時代後半の人たちだった。(池田) |
| 弥生前期末 | 三津永田(佐賀県神埼郡東背振村) | - | 土井ケ浜とほぼ同じ。 | |
| 弥生前期後半~中期中葉 | 土井ケ浜(山口県豊浦郡豊北町響灘) | - | シベリア・モンゴルの集団と現代日本人の集団のほぼ中間、予想以上に北アジアの集団に近い(埴原和郎)。 高顔・高身長を特徴とする中国北部や朝鮮半島の新石器時代人につながる可能性が高い(池田)。 抜歯風習はあるが縄文抜歯とは異なり上顎に偏っている。(中橋) | |
| 吉母浜(山口県) | - | - | ||
| 中ノ浜(山口県) | - | - | ||
| 古浦(島根県) | - | - | ||
| BC1世紀 | 勒島(韓国南部三千浦市) | 北部九州の弥生土器の特徴を持つ弥生系土器や甕棺が出土。(池田) | 日本の抜歯様式が採用されたと考えられる(池田)。 小片丘彦らによると、上顔高と身長は北部九州の渡来系弥生人と西北九州の在来系弥生人の中間に近いという。(中橋) | - |
| 弥生末~古墳 | 礼安里(慶尚南道金海郡大東面) | - | 210体の人骨。土井ケ浜・北部九州弥生人によく似ている。(中橋) | 華北の新石器時代人、戦国・前漢時代人より、中国北部の青銅器時代人、咸北櫛目文土器時代人に近い関係。無文土器時代前半(BC1000~BC300頃)の南部の渡来系弥生人的特徴は中国沿海部からではなく、朝鮮半島北部経由。(池田) |
| 古墳 | 畿内 | - | 渡来形質が特にきわだっている。短頭性は弥生時代に出現し古墳時代を経て受け継がれている地域的特性。(池田) | - |
| 東北九州・中国・四国・西近畿 | - | 北部九州・山口の渡来系弥生人に最も近い。(池田) | - | |
| 南近畿 | - | 縄文人的・古墳人的な特徴を持つ個体が多い。弥生時代の漁労集団の後身など。(池田) | - | |
| 関東・東北南部 | - | 大陸的・農耕民的要素が認められる。(池田) | - | |
| 北陸 | - | 縄文人的要素がみられるが、関東・東北南部古墳人に近い。(池田) | - | |
| 西九州・南九州 | - | 縄文人的形質。(池田) | - |
※表中 (中橋)は中橋孝博著『日本人の起源』 2005.1、(池田)は池田次郎著『日本人のきた道』 1998.11、(埴原)は埴原和郎著『日本人の誕生』 1996.11、(早乙女)は早乙女雅博著『朝鮮半島の考古学』 2000.7 によった。
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| - | 青銅器 | 水稲 | ||
| 朝鮮半島 | 日本 | 朝鮮半島 | 日本 | |
| 早乙女雅博 | 中国東北部の遼寧青銅器文化が朝鮮半島に流入し盛行。BC8世紀頃遼寧式銅剣流入。前期:遼寧式銅剣 後期:細形銅剣 無文土器の前・後期にほぼ対応(BC300年頃を境)。BC1000~BC1世紀頃まで。 | - | 松菊里遺跡から炭化米出土。BC5~4世紀。半島中部の欣岩里遺跡(BC14~BC10世紀頃)と大同江中流域の南京遺跡から出土した炭化米は畑作のものと考えられる。 | - |
| 片岡宏二 | - | 最古の青銅器鋳型は北九州市松本遺跡のもので、弥生時代前期末に上る可能性。青銅器生産は中期前葉から。朝鮮半島の青銅器の種類・形態の差が認められない。朝鮮半島からの技術工人の渡来は確実。中期後半になると倭人の嗜好にあった青銅器へと変化する。後期段階の鋳型は春日丘陵遺跡群に集中(中期後半から)。弥生文化の開始に複合的にもたらされた文化要素の中に青銅器を生産する技術はまだなかった。 | - | - |
| 宮井善朗 | 朝鮮半島では青銅武器の非実用化は西南部を中心にⅡ期(遼寧式銅剣の時期)からみられる。 | 日本に流入したⅣ期(弥生時代前期末・金海式期~中期前半)の青銅器は、剣、矛、戈の武器類、多鈕細文鏡、鉇、小銅鐸などである。流入期の初期には武器のみ。中細段階には銅矛、銅戈が大型化し埋納が始まる。 | - | - |
| 田崎博之 | - | - | 安承模によって、韓半島漢江南部の地域では、無文土器時代前期のBC1000~BC5世紀の畑作を主とする農耕、BC5世紀から水田を主とする本格的な稲作が確立されるという初期農耕の展開が論じられている。 | 水田遺構は縄文時代晩期終末(BC6~BC5世紀)までさかのぼる。菜畑遺跡では水田遺構が弥生時代前期初頭まで下げて考える見解もある。東北部地域では仙台市富沢遺跡(弥生時代中期初頭~後半)、青森県南津軽郡垂柳遺跡(弥生時代中期中葉)などで水田遺構が発見されている。Ⅰ型水田(水利施設をともなう水田)の伝播は韓半島南部地域から日本列島西南部地域へそして東北部地域へと想定できる。 |
| 池田次郎 | - | 弥生時代前期末の北部九州に持ち込まれた金属器は、中国東北部に起源をもつ朝鮮青銅器文化の要素だったことは明らか。 | - | 松菊里遺跡から出土した稲の穂づみに使う石包丁や磨製石斧の形式は菜畑遺跡のものによく似ており、その推定年代は菜畑より100年ほど前のBC600年前後である。晩成品種の稲は江南から山東半島を経由して朝鮮半島西南部に伝わり、そこで北部から南下してきた畑作用の早世品種の稲や雑穀、豆類を加えて九州北部へ伝来した。 |
※参考文献
早乙女雅博『朝鮮半島の考古学』 2000.7
片岡宏二『弥生時代 渡来人と土器・青銅器』 1999.5
宮井善朗『東アジアと日本の考古学Ⅲ』「朝鮮半島と日本列島の青銅器の比較」 2003.5
田崎博之『東アジアと日本の考古学Ⅳ』「日本列島の水田稲作」 2002.9
池田次郎『日本人のきた道』 1998.11
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2014年11月7日金曜日
絶対効く便秘解消法
個人差はあると思いますが、かなり重度の便秘の僕にはよく効いている方法なので、少しでも便秘で悩んでいる人に役立てばと思って、紹介させていただきます。
食物繊維法
①朝空腹時、200mlの豆乳に市販の食物繊維を推薦量より多めに入れて、食物繊維の塊が無くなるまでよく混ぜる。出来上がったら一気に飲み込んでしまおう。
②「①」の後、こんにゃくゼリーを二三個くらい食べるとより効果的。
植物性便秘薬法
①豆腐一丁を好きな調理法で作って、残さずに全部食べてしまう。
②すぐに「with one」などの植物性便秘薬をコップ2杯の水で飲む。
水酸化マグネシウム法
①空腹時に飲むだけ。飲んだ直後、沢山の水を摂取するのがポイント。(僕の場合は4錠がジャストです。自分の体の状況に応じて加減してください)
モサプリド法
モサプリドは胃の動きを改善する胃薬だが、その下痢の副作用を利用する方法です。
これも飲むだけ。タイミングは食後すぐです。
胃もたれ、胸やけなどの胃部不快感と便秘が併発している人におすすめです。
以上4つの方法を体調によって併用したり、加減したりすれば、大抵の場合は便秘とは無縁の日々を送ることができます。これらの方法でも便秘が治れなかったらごめんなさい!
要注意:腸閉塞など、腸内通路に問題がある方はこれらの方法を試したりしないでください。極めて危険です。
食物繊維法
①朝空腹時、200mlの豆乳に市販の食物繊維を推薦量より多めに入れて、食物繊維の塊が無くなるまでよく混ぜる。出来上がったら一気に飲み込んでしまおう。
②「①」の後、こんにゃくゼリーを二三個くらい食べるとより効果的。
植物性便秘薬法
①豆腐一丁を好きな調理法で作って、残さずに全部食べてしまう。
②すぐに「with one」などの植物性便秘薬をコップ2杯の水で飲む。
水酸化マグネシウム法
①空腹時に飲むだけ。飲んだ直後、沢山の水を摂取するのがポイント。(僕の場合は4錠がジャストです。自分の体の状況に応じて加減してください)
モサプリド法
モサプリドは胃の動きを改善する胃薬だが、その下痢の副作用を利用する方法です。
これも飲むだけ。タイミングは食後すぐです。
胃もたれ、胸やけなどの胃部不快感と便秘が併発している人におすすめです。
以上4つの方法を体調によって併用したり、加減したりすれば、大抵の場合は便秘とは無縁の日々を送ることができます。これらの方法でも便秘が治れなかったらごめんなさい!
要注意:腸閉塞など、腸内通路に問題がある方はこれらの方法を試したりしないでください。極めて危険です。
2014年11月4日火曜日
髪の毛
最近、アジア人にしてはかなり不自然なブロンドの僕は何故かよく地毛だと勘違いされたりする。その理由については知りようがなかった。昨日、暇つぶしにこの間の写真をもう一度見たところ、ふっとあることに気づいた。確かに、他人の視線から見たら、髪色は頭皮に馴染みすぎて分からないようだ。それに、そんなことを言った人は、大体僕は100%の日本人じゃないことを知っている。だから、この先入観と相まって、誤解率が増したじゃないか。
2014年11月3日月曜日
【考古学】刀剣型石製品の型式分類(後藤)
身の断面形態による分類(3器種6類)
把頭部形態による分類
I、刃部(あるいは側縁を走る稜)のないもの・・・小型石棒
II、刃部(あるいは側縁を走る稜)のあるもの
A、刃部(あるいは側縁を走る稜)が一側縁を走るもの・・・石刀
a、稜と反対の側縁が曲面で結ばれるもの
b、稜と反対の側縁をニ平面で挟むもの
B、刃部(あるいは側縁を走る稜)が両側縁を走るもの・・・石剣
a、両側の稜(不明瞭)の間が曲面で結ばれるもの
b、両側の稜(明瞭)の間が曲面で結ばれるもの
c、両側の稜の間に副次的な稜が形成され、四平面が形成されるもの
把頭部形態による分類
A式 把頭を有さないもの
A1 把部と身の区分が不明瞭なもの
A2 刻線を施すことにより把部が造り出されているもの
A3 関により把部が造り出されているもの
B式 把部、把頭部が刳りまたは刳るように剥離することに表現されているもの
C式 把頭部が球形または略球形を呈するもの
C1 球形ないしそれに近いもの
C2 扁平で略球形状のもの
D式 把頭が胴張りの円柱ないしそれに近い形状を呈するもの
E式 把頭が胴張りの円柱状を呈するものであるが、上下の沈線が強調化され段になったと思われるもの
F式 把頭が扁平なもの
F1 縦断面が縦長の台形ないしは三角形に近い台形を呈するもの
F2 縦断面が横長の長方形ないしはそれに近い形状を呈するもの
G式 把頭部の下に突帯を有するもの
G1 寸詰りの円柱形を呈するもの
G2 半球形を呈するもの
東正院(神奈川)、柏子所(秋田)、天附(熊本)、新田(福島)、橿原(奈良)、保土沢(岩手)、裏畑(長崎)、熊登(新潟)
萪内(岩手)、東北原(埼玉)
大沢(石川)、山本新(富山)、寺家にしきど(石川)、高井東(埼玉)、西広(千葉)、なすな原(東京)
小谷(岐阜)、貝の花(?)
亀ケ岡(青森)、乙女不動原北浦(栃木)
九年橋(岩手)、札苅(北海道)、寺下(青森)
興野(山形)、蟇沢(新潟)
参考文献
後藤信祐「縄文後晩期の刀剣形石製品の研究」(上・下)『考古学研究』33-3・33-4 1986 S61
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