2013年6月2日日曜日

【考古学】考古学の歴史

1 世界の考古学の歴史
 考古学は人間に関する学問,人文学の一分野である。人文学の多くは文字史料を基礎にし文献学を方法論とする。考古学はモノを基礎にし,型式学と層位学を方法論にする。考古学には古典考古学と先史考古学があり,古典考古学はルネサンスの風潮下,古代への憧憬を背景に誕生し,18世紀J.J.ヴィンケルマンにより確立する。先史考古学は19世紀進化論を背景にして成立する。体系化は Ch.J.トムゼンによりなされる。それは三時期法で,利器の材料が石,青銅,鉄の順で現れるとするもので利器の進化論ということができる。 19世紀欧州各国は旧約聖書に出てくる地名の発見をめぐって「発掘競争」と呼ばれる国威発揚をかけた激烈な争いを行う。素晴らしい美術作品を収集することにも血眼になった。先史考古学の分野では進化論を背景にして人類の悠久の過去を追究する。フランスを主にした調査を受けて, 65年J.ラボックは旧石器時代と新石器時代を分離した。70年代に石器時代の編年の大綱がほぼ確立する。進化論に基づく一線的な発展主義に貫かれている。

 19世紀末には先史考古学と古典考古学をつなぐ遺跡も発見され, 統一的な編年が確立した。調査研究は編年を確立することに主眼があった。20世紀に入ると植民地を中心にしたヨーロッパの外での調査が本格化する。ヨーロッパとは異なる様相が出現する。一線的な発展主義はもはや通用しない。20~30年代伝播主義が全盛になる。すべての事象を伝播によって説明しようとする風潮が強くなる。各時代のヨーロッパ文化の根源をすべてオリエント世界に求めようとする考え方が主流となる。農耕・土器も単一起源説が有力になる。 第二次大戦後, 編年の大綱が整ったこともあり, 時と場所以外の質問に答えられるような方向へ調査研究を進めるようになった。それを可能にする情報を調査と分析を通して抽出することを模索し始めた。それには自然科学的な方法の導入が大きな力になっている。理化学的な年代測定法, 遺跡や遺物についての微量成分の分析,遺跡の環境・生態情報などが考古学にもたらした利点は大きい。文化や社会の種々の側面に解答をすることが可能になった。考古学の従来の延長上にあっても,遺跡・遺物の詳細な観察に基づいた属性分析,従来とは違う視点からの分析など文化や社会を究明する方法が推進されている。
 こうした流れをさらに加速したのが60~70年代にアメリカを中心にして盛んになったプロセス考古学である。考古学も編年に留まっていないで, 積極的に文化や社会の種々の側面を研究して民族学と同じように成果を出すべきであるとするものである。
製作システムの復元を目指す技術・技法論, 食料をはじめとする暮らしの復元を試みる生業論,居住地周辺の環境を復元しようとする環境・生態論,社会の様相を復元しようとする社会組織論,人々の観念面を研究する宗教・思想論が代表的なものである。こうした中で自然科学的な分析方法がさまざまに開発され,分析の大きな鍵になっている。
 炭素14年代測定法などの理化学的な年代測定法の開発とその成果が考古学にもたらした効果は大きなものがある。考古学独自の相対年代に加えて別個の方法で年代が測定できることは, 広範囲に年代の比較を可能にし, 種々の課題を克服しなければならないが暦年代に近づける可能性をもたらしたことで飛躍的な成果を生んでいる。
考古学は不得手の部分を克服し, あったことを語るように努めなければならない。
2 日本の考古学の歴史
 種々の先駆的な調査研究はあったが,日本の考古学の歴史はE.S.モースの大森貝塚の調査とその調査報告書の刊行をもって嚆矢とするのが妥当である。モースは生物学のお雇い教師であったが, 進化論を身につけ, 貝塚の調査もアメリカで体験していた。その報告書は当時の欧米の最新の知識に基づくものであった。モースの成果は受け継がれず,東京帝国大学人類学教室に置かれ, 坪井正五郎を主にする人類学会(1884)と三宅米吉らの帝室博物館の考古学会(1895)が主導していく。その主たる関心は人種問題にあったといえよう。アイヌ人関連, 縄文人問題などが中心で, 直感で論争が行われていた。資料は次々に増加するが,分析する方法に乏しく記紀の伝承を頼りに遺物を適合させるかに腐心していた。 1916年京都帝国大学に国内初の考古学講座が開設される。初代の教授,濱田耕作は型式学と層位学を導入し実践していく。東北帝国大学理学部の松本彦七郎は仙台湾周辺の貝塚の調査で層位学的方法を実践した。方法が次第に整備され,学問的な基礎が形成される。 1930年代は日本考古学の飛躍の時であった。土器の編年の大綱が整備される。縄文土器を山内清男が, 弥生土器を小林行雄が, 土師器を杉原荘介が主になって編年を提唱した。これらは改定・増補されてはいるが, 現在も利用されている。編年研究はその後も多くの研究者が目指し,世界でもっとも詳細な編年網ができた。一方,「皇国史観」が年を追って強まり,記紀と抵触する可能性のある研究は困難になった。この時期,東亜考古学会を主にした調査が中国東北部,朝鮮半島の歴史時代の遺跡で行われ多くの成果があがった。
 20世紀の第3四半期, 列島の考古学の範囲は古く遡った。49年の相澤忠洋の岩宿遺跡の確認を端緒とし以降列島のほぼ全域で旧石器が発見される。酸性土壌のため骨角は溶けて石材しか遺らないのは決定的に不利な条件だが, 火山灰の対比で石器群を把握,接合から製作システムを復元するなど特徴ある分析方法が採用されている。縄文時代も洞窟遺跡の意図的な調査などでより古く遡り,草創期が設定された。旧石器文化から縄文文化への移行の様相が把握できる状況が整いつつある。多様な移行の在り方が推測される。
 第4四半期は行政調査の激増で特徴づけられる。資料が蓄積され,歴史時代の考古学が大きく進展した。調査に従事する職員7千人以上,年間経費1千億を越える大型のプロジェクトになっている。自然科学的な方法が導入され大きな役割を果たしている。詳細な編年とともに日本の考古学の一つの特徴となった。多くの資料により集落の様相,地域社会の在り方などが解明され,各時代の生業についても自然科学的成果の援用により詳細なイメージが得られてる。暦年代によるムラ→クニ→国の過程も把握できるようになった。
 古代についての考古学的な成果は大きなものがある。木簡をはじめ多くの文字史料が得られ,宮都だけでなく地方官衙・村落も調査され,地方の実状も明らかになった。中世・近世の遺跡の調査も成果を挙げている。地域限定されるモノ,全国流通するモノを通して流通の状況も解明された。文献史学,民俗学との共同作業が多くの成果をもたらした。アイヌ文化につながる「北の文化」,琉球王朝につながる「南の文化」も説き明かされた。
 種々の年代測定法,調査記録の情報化,資料情報の多角化,環境生態情報の多様化,微量成分分析による遺跡・遺物情報の多彩化などの自然科学的な方法の導入が大きな役割を果たしている。年輪年代法の成果,産地同定,遺跡周辺の環境データ,季節ごとの生業の推定は特に目覚ましい例である。また,多くのグループが世界各地で調査を行っている。 20世紀の間に考古学は大きく飛躍した。その成果をわかり易く語ることが重要である。