2011年11月10日木曜日

日本品詞論

折口信夫
(一)語根
日本品詞組織の考察は動詞の解体からのを便利とする。先づ其の構造の基礎的要素として語根語尾の二部を対立せしめることに付いては、誰も異存の無いはずである。ところが、此の両者の結合の工合に両様の状態がある。

��一)語根×語尾
��二)語根+語尾

と云ふ風な体製を見るのである。(一)は語根と語尾とが融合してをつて二部に分つことの出来ぬもので、一見語原組織の交錯して居る様に思はれるまで熟してをる。此の場合今一つ語幹と云ふ立場を挿入して此の組織の交錯点を示す方法があるけれども、これは単に方便に過ぎないので、合理的の立脚地に立つものとは云ひ難い。

かく  おす  かつ
めづ  しぬ  いふ
くむ  たゆ  かる
の如き語は、此の類に属してゐる。勿論、此の中には単に語原的意識の明瞭ならぬだけの理由で、実際は(二)に含まれるはずのものもある事と思はれる。
��二)は語根と語尾とが比較的分離し易き関係にあるもので、観念表象の主要と其の属性的判断との結合点を伺ふ事の難くないものである。これにも、
��イ)語根+語尾
��ロ)語根+[#「+」は点線丸囲み]語尾
と云ふ両様の構造がある。(ロ)は勿論、(イ)なる第一形式の転化したもので、形式的に見ると、語根×語尾と云ふ(一)に非常に近くて、曲折的の傾向が明かに認められる。
なす(寝) いそはく(<務(イソ)ふ) またく(<待つ) はやす(<栄(ハ)ゆ) こらす(<懲る) うがつ(<穿(ウ)く) わがぬ(<曲ぐ) おさふ(<圧す) たゝかふ(<叩く)
これを又形式上から見て、
��A)語根が単に原形の音韻をかへただけのもの
��B)語根が其の原形なる言語の属性の部分観念を表象するために、故意に音韻をかへたものと思はれるものゝ接尾語に結びついて特殊の概念を構成したもの
との二つがある。
内容の上からも亦、
��C)語根語尾の融合により文法的属性の変化を示すもの
��D)時間観念を増加して言語情調を変ずるもの
との二種がある。
��A)は無意識的に音韻の変化したものであるが、(B)は故意に文法的属性を形にあらはしてそれに接尾語を呼んだものである。共に今日では、明瞭な語原意識が浮ばないから判然と断言する事が出来ないが、ともかくも此の二つの範疇が根底に横たはつてゐることは疑を入れない。
例へば、単に(u)で終る原形が(a)と変じて語尾に接する如き、或は副詞法より語尾に続いたものと思はれるわかゆ(<わく)の様なのがあつて、一は全部属性の活動を現はし、一は其の部分的なものである。
前者の例は、かづらく・まくらく・かげるの類、後者の例は、かたぐ・あぎとふ・はらむの類。
後の者は概念の中で最も普通な差別観念が全内包を占て外延を収縮させ、属性的活動を特殊なものにせばめてゐる。
   ①抽象語と語尾との粘着
形式上、体言として取扱はれるもので、まだ完全な概念を形づくるに至らないもの、よし又、概念を有してゐても、其の形式が一つの独立詞として扱はれにくい語をくるめて云ふので、之又、厳格な意味に於ける抽象語では無い。
ふるぶ  むつむ  おもる  かする
語根と語尾との分岐点並に其の独立資格を認めることが出来るが、今日単独に直ちに体言として扱ふことは困難である。けれども、活動力の無い点から見て、当然抽象的の体言とすべきである。これには後に云ふ品詞の語根と語尾との複合が大部分を占てをる。
   ②擬声語と語尾との粘着
言語の起原を擬声にありとする学者もある程で、とにもかくにも吾々の思想表現の発程に大なる勢力を、此の類の言語が持つてをつた事は事実である。擬声語は副詞の語根ともなるべきものであるから当然体言である。
とゞろく  とよむ  そゝぐ  よゝむ
おどろく  ころぶ  うごく  すゝる
せゝらく  すふ   ふく   さわぐ
きしる   たゝく
これらの語根をなしてゐる擬声語は、総て副詞的の職分を持つてゐる。この場合、語尾は語根の意を拡張することなく聴覚を直に対象の動作に移してゐる。
   ③品詞の語根と語尾との粘着
或る種の用言から他の用言に転ずる例は珍らしくない。けれども、それが語尾に対して副詞的の位置をとる場合には直に用言の語根と称することが出来るのである。例へば、
よし>よる     うれし>うれしむ
あらは>あらはる  ころ>ころす
是等は副詞なり形容詞なりの語尾を脱して直に用言語尾に接してゐるので、語根の副詞的の位置を有してをることは明かである。
   ④動詞の名詞法と語尾との粘着
動詞の連用法連体法が体言的の性質を持つてゐることは知られてゐることであるが、将然法も終止法も乃至は已然法さへも名詞となることの出来る傾がある。連用法と語尾との用言を構成する事は、其の純粋の体言である性質上分り切つた事実であるから今は省く。
さかる  うわる  はやす  くらす
うまる  くらむ
などは、将然法と語尾との関係と見ることが出来る。これについては、将然副詞法を参照してほしい。
終止法に付いては、其れが用言の語根即ち体言となることが出来ると云つたならば、不思議に思はれるかも知れないが、是は用言の原始活用の章を見てもらひたい。
近世になつて連用法を語根とした或は動詞的発想に体言的の意識をさしはさむところから連用名詞が語尾をなしてをる様に見えるものが多い。うかべる・いきる・すぎるの様な連体から変形した終止法を形づくることもある。

2011年11月3日木曜日

日本的価値観の構造

 
��.日本的価値観の構造

日本的価値観とは何かと問いかけてみたとき、「和の精神」である
とか、「武士道精神」であるとかいろいろな答えが返ってくるだろ
うけれど、これほど人によって同じ言葉にならない価値感覚も珍し
い。日本的価値観ってなかなか一言で言い表せられない。

これについて考えてゆくうちに、日本の価値観も伝統的な日本建築
と同じ構造を持っているのではないかと気づいた。

武家屋敷などの伝統的な建築物は建物の設計図が存在せず、必要に
応じてどんどん建て増ししてゆく構造だという。価値観をひとつの
建築物とみた場合、思想も同じく、必要に応じて、別の思想を建て
増ししていった構造を持っているのではないだろうか。
日本的価値観という建物を建てる地面があって、まず古神道の部屋
を作る。そのとなりに仏教の部屋を作り、更にそのとなりに儒教の
部屋をつくり、さらに時代が下ると2階部分にその時代の思想の部
屋を建て増ししてといった具合に、思想の上に思想をどんどんのっ
けていった構造をもつ価値観。
もしも思想の構造を視覚的にみえる人がいたならば、他国の思想は
、円錐やら、直方体やらの統一された形状でみえるのに対し、日本
のそれはおそらく、「ハウルの動く城」のような奇っ怪な、ごちゃ
ごちゃの建て増し構造にみえるだろう。
それぞれ建て増しされた部屋の外観や中身は、和風であったり、中
華風であったり、西欧風であったりして、まったく統一されていな
いが、ともかくもひとつには纏まっている。
外人からみればさぞかし不思議な思想構造に見えるにちがいない。
イビチャ・オシム日本代表監督はこう語っている。
「日本に感化され、同化したという意味ではない。それでは皆さん
もつまらないし、私が監督をするメリットもない。ともに働きなが
ら、日本人の面白さに感じ入った、ということです。何というか、
日本のアンビバレントなポリバレント性に。民主主義を原則としな
がら天皇制があるみたいな。みんなを尊重するやり方といいますか」
��.思想の建て増し構造の利点
思想の建て増し構造の利点は、おおきく二つある。ひとつは構造物
の素材単位で取替えが利くということ。
伝統的な日本建築は、その構造から、建物の解体が比較的容易にな
っているから、たとえば、根太が腐るとそこだけ新しいものに取り
替えできることができる。それと同じで、建て増し構造の価値観で
は、古くなって使えなくなった思想も、新しいものに置き換えるこ
とができる。
人間も新陳代謝で細胞がどんどん入れ替われるけど、細胞がどんな
に変わっても、人としての存在がなくなるわけじゃない。だから、
古い思想の一部を新しいものに置き換えても日本的価値観という建
物そのものは変わらないという考えになる。
もうひとつの利点は、その時代時代にマッチした、新しい思想や有
用な考えを大きな抵抗なく直ぐ取り込めること。新しい思想に対し
て、自分の建物の中から相性がよさそうな部屋を探して、その上に
建て増しするだけ。その時々の最新思想をすぐに使える。
部分をいくら取り替えても、いくら建て増ししても、日本的価値観
の建物自体がなくなる訳じゃないから、見た目がどんなに変わって
も気にしない。
どうして思想の建て増しが可能なのかというと、日本神道に教義が
ないために、他の教えと抵触しないから。
異なる教え同士は衝突する。自分が正しいと、どちらも主張する者
同士では衝突するのが普通。
でも建て増し構造であれば、他の思想は部屋として扱うから、思想
はそのまま手付かずで保存される。互いに干渉しない。部屋同士は
とりあえず廊下で繋いでおけばいい。無頓着といえば無頓着。
��.近代民主国家における価値観構造
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」
マルコ伝でも、ルカ伝でも取り上げられている有名なイエスの言葉
。今では政教分離の話題でよく用いられる。
異なる価値観を持つ小集団の集まりを国民とする国家の統治原理を
考えた場合、各集団がもつ個々の価値観を受容しつつ、なにか国家
としての共通の価値基盤を持たせなくちゃいけない。
キリスト教は、宗教改革を通じて、聖と俗を分けることで対立を回
避した。個人的な心の中の規範と、社会的規範を分離した。
個人の中の原理と社会の原理をわけることで、政教分離して、価値
観に折り合いをつけて、「俗」の部分をフリーハンドにした。
価値観の構造でいえば、個々人がもつそれぞれの「聖」の部分の価
値観の建物を、社会的「俗」の部分の価値観の塀でぐるりと囲んだ
ようなもの。塀の中の個々の「聖」の建物はくっついているわけじ
ゃない。
現在では、アメリカなんかが丁度当てはまる。価値観は建て増しじ
ゃなくて、住み分け。
国政統治の原理としては、アメリカと日本もどちらも民主主義を奉
じ、信教の自由を保障しているけれど、価値観の建物でみれば構造
は異なる。日本のように個人がキリスト教徒でもあり、仏教徒でも
あり、神道も奉じているなんてことは、一神教の世界ではありえな
い。原理同士がぶつかる。
衝突の度合いが酷いときは、どちらかの建物は取り壊されることに
なる。回避策としては、原理を適用するエリアをそれぞれに分ける
しかなくなる。いきおい住み分け構造になる。
どんなに文化的受容がある国家でも思想や文化が入ってきた時点で
は、自分の土地に別個の価値観の建物が建つもの。
それを、別のものとして扱って塀で囲むのか、破壊して排除するの
か、または「ハウルの動く城」のように建て増しして繋げてゆくの
かという違いがある。
��.カルシファーと防人
日本的価値観の建物が各種思想の建て増し構造を持っているとする
と、建て増し思想の核の部分はあるのかないのかといった議論が起
こってもおかしくない。
「ハウルの動く城」でのラストにそれを示唆するシーンがある。
最初、ハウルの城はいかつい巨大な城だったけれど、ラストには、
床板に足が生えただけのものになる。この状態でもハウルの城とい
えるのかどうか。当初の巨大な城としての機能はもはや失われてい
る。はっきりいって城じゃない。
これは丁度、建て増し構造型の価値観でいえば、各種思想がそぎ落
とされて、殆どなくなった状態に等しい。このときに日本的価値観
はなくなったとするかどうかという命題を提示してる。
しかし、日本人的感覚では、これでもまだハウルの城と思う。なぜ
かというと命が篭り、まだ動いているから。ハウルの城は外見の姿
形ではなく、理念。命そのもの。それを具現化して象徴する存在が
火の精霊カルシファー。
カルシファーはハウルの城の命を象徴し、映画では、ハウルの望み
に応えて、城内を作り変えたり、ソフィーの部屋を作り出したりし
ている。カルシファーがいれば、いくらでも再生できる。
日本的価値観を問われて返ってくる様々な答えは、おそらく建て増
しされたどこかの部屋を指して言っている。
建て増し構造そのものを指して「和の精神」ということもありえる
けれど、構造が思想になるかどうかは微妙なところ。原理ではない
から。
鍵を握るのはカルシファー。命の象徴。そして、その日本の命の火
を燃やし続け、カルシファーが消えてしまわないように常に薪をく
べ、見守りつづける防人が仕えている。天皇の存在がそれ。
天皇は歴史的には祭司。宮中祭祀を連綿と続け、保持することで、
日本的精神、日本そのものの命の火を守ってる。だから、天皇家が
絶えない限り、カルシファーは存在し続け、日本的思想のハウルの
城は形を保つ。そう日本人は見てる。
��.防人の役目
日本人は八百万の神々を直接見ることはできないけれど、天皇が存
在し、毎年宮中祭司を行う姿をみることで、間接的にカルシファー
が燃え続けていることを確認する。
それがまた、八百万の神々が常に私たち日本人と共にあると感じ、
安心する。天皇を媒介として神と人とが繋がっている。この感覚は
特筆すべきもの。
天皇制を廃止しようとかいう声もあるけれど、そうしたら日本は唯
物論に傾いてゆくと思う。カルシファーの防人がいなくなることは
、必然的に神と人との繋がりが消えてゆくことを意味する。八百万
の神々が傍にいるとはだんだん感じられなくなって、享楽的・刹那
的になってゆく。そうして唯物主義に堕する。日本人の美徳も消え
ることになる。
だから、万が一天皇制を廃止する場合は、その代わりになる、別の
カルシファーの防人が必要になる。だけどその防人には、格式も礼
式も資格も必要で、季節ごとの薪の種類の選び方や一度にくべる薪
の本数をどうすべきかとか、火の勢いを調整したり、灰を適切に処
置したりなど、一切のことができなくちゃいけない。
そのノウハウを持っているのが唯一天皇家であるであろう現状を考
えると、天皇制の廃止は考えられないと思う。
同じく、女系天皇を容認するかについても、その対象者が、カルシ
ファーの防人に必要な技能と資格を持っているかが条件になる。
��.人間理性と信仰の両立
たぶん日本人にとって、宗教思想は原理ではなく道具。教えとは、
一なる神から別れ出でて、形となって、仮の姿としてこの世に顕れ
たものという位置づけ。だから、教えはいくらでも流転するし、時
には教えの中身すら変わることがある。そんな感覚がある。
内なる神を尊崇する気持ちさえ忘れなければ、教えの形には拘らな
い。全てが一なる神から別れ出でた教えだから、好きなときに好き
な教えに従えばいい。そういうおおらかさがある。
なぜそこまで柔軟になれるのかは、神と人との関係をどう考えるか
に拠ると思う。
キリスト教やイスラム教での神は絶対者。人は逆立ちしても神には
なれない。ところが仏教は、修行の果てに仏になれると説くから、
人が神にもなれるという立場。
日本神道も、実在の人物が、後世祭られて神様として扱われたりす
るから、仏教に近く人も神になるという立場だろう。
さらに踏み込んでみれば、自然も含めた動植物や人の存在全てが神
の顕れのひとつであり、神の一部でもあるという思想といったほう
がいいのかもしれない。仏教的にいえば、悉有仏性。すべての存在
に仏性があるという考え。
日本的価値観、宗教観といってもいいけれど、日本の八百万の神々
がいるとして、どうも人がどの教えを奉じて生きてゆくかについて
さえも、人に任せている観があるように思えてならない。教えで人
を縛らない。
だけど、人が全てを決めていく世界では、人を偉しとして、ともす
れば神の存在を否定してゆくことだってある。
そのために、日本では神を敬うという祭司を行い、常に心から神を
敬う気持ちを忘れないようにするという伝統を培ってきたのではな
いだろうか。
神を忘れないための作法として、自らの穢れを祓い、虚飾を去り、
その身そのままの自らの仏性・神性をあらわにして、自らが仏神の
一部であることを常に確認することが大切である。それを確認でき
たのなら、その自らの仏性・神性に従って生きてゆけ。こういう価
値観ではないだろうか。
近代文明の原動力となった人間理性を否定することなく、神への信
仰を両立させている。非常にバランスのとれた考えだと思う。
��.宗教原理と時代性
知の性能の観点からみれば、古典や世界宗教の性能は大きい。指向
性が全方位におよび、また賞味期限も非常に長いから。
知の専門性の奥行きという点では、厳密性や細分化という意味にお
いて、後世のほうが進んでいる場合もあるけれど、古典や宗教は人
の心のあり方を説くから、基本的な思想の核の部分は、当時も今も
あまり変わらない筈。
だけど、新しい宗教がおこるときは、その時代の、その場にいる人
々を真っ先に救う教えであるから、彼らに一番必要な教えが説かれ
る。結果、将来的に世界宗教になる普遍性をもった教えであっても
、教えの色合いは時代と地域に縛られる。
だから時代が下ると、教えに説かれていない事態に直面したり、教
えそのものが時代に合わなくなってきたりする。教えそのものを曲
げる訳にはいかないから、時の教皇や法王なんかが時代に適合する
ように、教えを解釈しなおしたり、新しい注釈を加えたりして、ど
うにかこうにか対応しようとする。
憲法改正できない日本が憲法解釈をどんどん進めて、自衛隊を海外
派兵できるようにしたのと同じことをするしかなくなる。教祖がい
ない時代では、もはや勝手に教義を変更できない。
日本的価値観は建て増し型で取替えがきく構造だから、古い部屋は
引き払って、時代にマッチした最新の部屋を住処にするだけ。憲法
解釈の必要がない。これが逆に日本に原理主義が発生しない理由に
もなっている。
王政復古だとか、日本的精神を、とかいっても、ただ建て増したど
こかの部屋が汚れているから掃除しよう、とか、最近この部屋を使
ってないから使おうよ、とか言ってるだけのこと。原理主義とは違
う。もともと原理はない。命だけある。
��.宗教や思想の耐用年数
思想の建て増し構造は時代に即応したフレッシュな思想をいつでも
大きな抵抗なく使える利点がある。時代の流れが速くなればなるほ
ど力を発揮する考え。
まるで日本神道というWINDOWSに最新の思想ソフトをインス
トールして起動するようなもの。
開国して、最新ソフトをダウンロードして、鎖国してネット回線を
切断してソフトをインストールする。その繰り返し。
宗教思想が根本にある国では、宗教原理に縛られることがある。い
きおい革命的な改革の妨げになることもある。
たとえば、ある国が世界と比べて後れてしまったとした時に、対策
として取るであろう行動を考えてみる。
ひとつは、自分達の国が落ちぶれたのは、もともとの教えを忘れ、
堕落したからだと考える方向。この場合は、本来の教えに戻ろうと
原理主義になって、過去に遡ってゆく。時代に逆行する。
もうひとつは、宗教自体を否定してしまう方向。無神論にして、そ
れを軸に国をつくれば、宗教思想に縛られる必要もなくなる。好き
勝手できる。その結果、唯物主義にながれ、地球や他人をも平気で
破壊してゆく危険を孕む。
それに対して、日本はもともと原理に縛られないから、落ちぶれた
ときには、勉強が足らなかったからだと考えて、他の思想を積極的
に学んで、未来へ向かうことができる。
古い宗教が時代に合わせて自己改革ができなかったり、宗教原理の
縛りから逃れられなかったりすると、どうしても時代についていけ
なくなるときがやってくる。いくら憲法解釈で逃げるといっても限
度がある。
宗教の教義そのものの中に、「時代に合わせて教えを変えてもいい
という教え」を入れておくことは出来ないのだろうか。
そうでもしない限り、宗教自身の耐用年数を超えたときには、原理
主義への回帰が起こったり、宗教そのものの否定が起こったりして
、時代の流れに沿った発展の阻害になったりする場合が起こり得る

その意味では、日本の思想の建て増し型、教義が無いが故に形成で
きた日本神道のWINDOWS構造は非常に優れたもののように思
える。
ただし、インストールソフトそのものに重大なバグがないことは大
前提になる。
全てが一なる神から別れ出でたものという考えは、ソフトにバグな
んかないという考えに流れてもおかしくない。
予め説明書を読んで、良し悪しを判断するわけじゃなくて、起動し
て初めてバグだったかどうかわかる。インストールするソフトの信
頼性が大事になる。ここが日本的価値観の建て増し構造の弱点。
��.日本の建築文化の思想への展開
宗教に教義という原理がある以上、異なる教え同士がぶつかるのは
必然。ぶつからないのはそれぞれの教えで共通の教えの部分だけ。
たとえば、イエスの「自分のして欲しいことを他人に施しなさい」
と 孔子の「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」とか、釈迦の戒
「不偸盗戒、不邪淫戒」とモーセの戒「姦淫をしてはいけないこと
、盗んではいけないこと」 とか。
違う教えであっても、部分でみたら同じ教えもあるから、そこだけ
なら相互理解は可能になる。
日本は本地垂迹説を採用し、神様レベルで存在ごと同じにしてしま
ったけれど、いまや他国では通用しにくい考えになってしまった。
コーランには、キリスト教の天使が出てくるけれど、それでも周知
のとおり衝突している。
これは一神教の限界なのかもしれない。だとすれば、本地垂迹も教
えの各パーツレベルでしかする方法がない。
これはとりも直さず、構造を素材ごとに分解してまた組みなおす試
みになる。
東京大学の坂本功教授は、
 「建築物を解体して再利用するという発想は、西洋人にはない文
化であり、これまでなかなか理解されることがなかったのです。こ
こにきてやっと、建築関係の国際会議で、建物の姿形が一度まった
く失われて、素材レベルになったものを再度組み立て直しても、オ
リジナルであるとする日本の建築文化が認められるようになりまし
た。」
と述べている。
建て増し型の思想構造がとれない世界では、思想の衝突を避け、相
互理解をすすめるためには、各世界宗教や思想の構造を一旦素材レ
ベルに分解して、それぞれで同じパーツだった部分を確認した上で
、再度建築物を構築する試みが必要ではないだろうか?
そこまでして始めて、各宗教の教えの一部が時代に合わなくなった
部分に対して、そこだけ新しいものに入れ替えるという考えが許容
されるように思う。
国連では、スペインとトルコが主導の下、2005年からさまざま
な宗教、文化、国家の間の和解を促進することを目的にして、「文
明の同盟プロジェクト」がスタートしている。
イスタンブールで、その「文明の同盟」報告書発表の際に行われた
スピーチでアナン前国連事務総長はこう述べた。
「まず第一に、問題がコーランやトーラー、聖書にあるわけではな
いことを再確認し、論証することから始めなければなりません。問
題は信仰にあるのではなく、信者たちのうちにあるのです。ある宗
教の信者たちが、別の宗教の信者たちに対してとる態度のうちにあ
るのです。我々はすべての宗教に共通する基本的な価値観、つまり
思いやり、連帯心、人格の尊重、「人からして欲しいと思うことを
人になせ」という大原則を強調すべきです。」
衝突する思想の解消には、この素材からの再構築しかないのかもし
れない。
��0.「聖」も「俗」も一体化している日本的価値観
日本人は無宗教とよくいわれるけれど、日本人の場合は無宗教は無
信仰とイコールじゃない。
無宗教だから無信仰と考えるのは西欧の価値観でみているから。彼
らは、その国家の社会的価値観と国民の個人的信仰の部分の価値観
は全く別のものでそれぞれ不可侵と考える。
だから、個人的価値観の源となる宗教に属するのは当たり前になる
。無宗教の人は個人的価値観を持たない存在、下手したら人間でな
いと思われかねない。
日本の価値観の建て増し構造は、「聖」も「俗」も繋がって一体化
してる。日本の社会的価値観と国民の個人的信仰の部分の価値観は
別個の存在じゃない。
だから、日本人であることが、そのまま「聖」の部分である個人的
信仰の価値観の保持になってしまう。
国家の社会的価値観と個人的信仰の部分が分離されていないという
意味では、イスラム社会に似ているけれど、イスラム社会は、原理
が規定され、それが憲法であり、個人の行動規定でもあるから、時
代に即応した新しい思想を自由にインストールして直ぐに使えるわ
けじゃない。
それに対して、日本の価値観の構造は、輸入された各種思想のエッ
センスを網羅し、かつ原理に縛られずに未来にむかって成長できる
価値観構造を持っている。
つまり日本人は無宗教なのではなくて、わざわざ特定の宗派に所属
する必要がない。日本人であれば、それがそのまま信仰になる。そ
ういう価値観を無意識下で持っている。
だから、クリスマスを祝って、初詣して、仏式葬儀ができる。時に
日本教と呼ばれる所以。
国連が始めた「文明の同盟」プロジェクトは、日本では2000年
前からすでにスタートしていたといえるのかもしれない。
��了)

2011年2月17日木曜日

「とにかく」と「何しろ」

とに‐かく
��副]

�� 他の事柄は別問題としてという気持ちを表す。何はともあれ。いずれにしても。ともかく。「―話すだけ話してみよう」「間に合うかどうか、―行ってみよう」

�� (「…はとにかく」の形で)上の事柄にはかかわらないという気持ちを表す。さておき。ともかく。「結果は―、努力が大切だ」

◆「兎に角」とも当てて書く。

[用法] とにかく・なにしろ――「彼はとにかく(なにしろ)まじめな人だから」「このごろ、とにかく(なにしろ)忙しくってね」のように、取り上げた事柄をまず強調しようとする意では相通じて用いられる。◇「時間だから、とにかく出発しよう」「とにかく現場を見てください」のように、細かいことはさて置いて、まず行動をという場合は、「とにかく」しか使えない。「私はとにかく、あなたまで行くことはない」のような「…は別として」の意の用法も、「とにかく」に限られる。◇「なにしろ」は「なにしろあの人の言うことだから」「なにしろ暑いので」のように「から」「ので」と結び付いて、その事柄を理由・原因として強調する用法が多い。

2011年2月11日金曜日

ものだ

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN10281005/Hiroshima-IntStudentCenter-kiyo_6_49.pdf

2011年2月7日月曜日

「は」について

                   5.1  これまでの「は」のまとめ
                   5.2  ハ・ガ文
                   5.3  主題化    
                   5.4 副題のハ
                   5.5 ハ・ガの省略
                   5.6  主題を示す助詞
                   補説§5

5.2  ハ・ガ文  
��Aの型:ハ・ガ述語][Bの型:NのN][ハ・ガ文の動詞文][その他のハ・ガ文]
5.3  主題化 
5.3.1 主題と文の性質
5.3.2 品定め文
5.3.3 物語り文 [無題文][主題になる名詞][補語の主題化]
5.3.4 主題の機能
5.6  主題を示す助詞
��Nなら][Nって][Nったら][Nといえば]
補説§5
 §5.1 先行研究紹介
 §5.2 「は」と「が」の基本
 §5.3 「が」と「は」の話
 §5.4 「主語」という用語について

5.1 これまでの「は」のまとめ


  これまで「は」について繰り返し述べてきました。それは「は」が日本語の文法
の中で非常に重要な位置を占めるからです。それを、これから詳しく考えてみます。
  まず、これまでの「は」に関する説明を復習し、まとめておきましょう。
 「0.はじめに」では、次のことを述べました。
 ①-1
  日本語の文の基本的な構造として、「補語-述語」という見方のほかに、 
 「主題-解説」という分析のしかたがあること
 ①-2
  動詞文を例にして、ある事実を述べた文と、それを受けて話を進める文と
   いう形で文が連続して行く、そのつながり方を示す一つの方法として、 
  「主題」というものが使われること
 ①-3
  日本語の文は主題のある「主題文」と、主題のない「無題文」に分けられ
  ること
 次に、「2.名詞文」で、名詞文の「ハとガ」の使い方を次のように説明しました。
 ②-1
  名詞文には、            
          a.AはBです  (私は田中です)
          b.BはAです  (田中は私です)
  の二つの型があること
 ②-2
  「が」を使った文、
          c.AがBです  (私が田中です=田中は私です)
  は、bの型に結びつけられること
 ②-3
  「情報の焦点:言いたいこと、聞きたいことの中心」は「は」の後ろ、
 「が」の前の名詞にあること
 ②-4
  疑問語は当然その焦点に来る。つまり「Q+は」はありえず、「Q+が」
  であること
 ②-5
  名詞文は基本的に主題文であること
  ②ー6     
  「AはBがCです」という型の文、つまり一つの文に「ハとガ」
  が共存する文があること
「3.形容詞文」では、名詞文との違いに重点を置きました。
 ③-1
  名詞文と同じような、主題文に関する「ハとガ」の使い分けのほかに、「現
    象文」の「が」というものがあり、「中立のガ」と呼ぶこと
     夕日がきれいですね。
  なお、この「が」は特に焦点を示しません。
 ③-2
  「AはBが~」の型の文が(名詞文よりも)ごくふつうに使われ、その中 
 に二つの型があること
          私はくだものが好きです。(「くだもの」は「好きだ」の対象)
          私は頭が悪いです。(「頭」は「私」の部分。「悪い」の主体)
  これらの「が」も特に焦点を示しません。疑問の焦点・答えの焦点となっ 
   たりした場合は別です。
「4. 動詞文」では、次のことを述べました。
 ④-1
  「中立のガ」を使った「現象文」が状況をそのまま述べることによって、
  場面を設定すること
 ④-2
  「中立のガ」でない、疑問の焦点となるような排他的な「が」を「指定の
  ガ」と呼ぶこと
 ④-3
   「主題」になるのは主体のNだけではなく、場所も主題となること
     新聞はそこにあります。
     ここには中国の新聞もあります。
 ④-4                                                         
  動詞文の中にも、「対象」の「Nが」をとるものがあり、「AはBがV」
 の形の文になること
 なお、以上に述べてきた「は」は、すべて名詞句かそれに助詞のついた形、
つまり補語につく「は」に関することです。副詞や数量詞、また動詞についたり
する「は」は、「副助詞のハ」とします。副助詞の「は」は、主題を示す「は」とは
一応別のものと考えることにします。(→「18.副助詞」)

5.2 ハ・ガ文のまとめ


 さて、以上の名詞文・形容詞文・動詞文の「ハとガ」に関するまとめの中に
繰り返し出てきた「ハ・ガ文」についてまとめておきましょう。「ハ・ガ文」とは、
「AはBが~」の形の文、つまり一つの述語に「Nは」と「Nが」の両方がこの
順で使われている文のことです。当然、主題文です。
  「ハ・ガ」文は「Nは」と「Nが」の二つの名詞の関係の違いによって、次の
��・B二つの型に分けられます。
      A  1  私は彼女が好きです。
          2  あなたは中国語ができますか。
      B  3  あの人は奥さんが外国人です。
          4  象は鼻が長いです。
          5  鼻は、象が長いです。(耳は、ウサギが長いです。)

[Aの型:ハ・ガ述語]


  Aの型は、例1・2のように、ハ・ガの型をとるのがふつうであるような述語、
つまり「Nが」を補語としてとるような述語によるものです。形容詞と動詞です
が、動詞の場合ははっきりした特徴があって、この型になるのはすべて
状態を表わす動詞です。
 これらの述語は「ハ・ガ述語」と呼ばれることもあります。ふつう、初級教科書
に出てくるのは次のような述語です。
        動詞      できる、わかる、ある(所有)、要る 
        ナ形容詞  すきだ、きらいだ、じょうずだ、へただ、とくいだ、
                  にがてだ、ひつようだ
        イ形容詞  ほしい
                  感情・感覚形容詞(楽しい・まぶしい)
     可能動詞(読める・食べられる →「25.3 可能」)
       V-たい(食べたい →「37.希望」)
  これらの述語の「Nが」は、ふつうの他動詞の「Nを」と性質が近いものと見なし
て、「対象」とします。
          私はこの問題がわかります。
          私はこの問題を知っています。
          彼は音楽が好きです。     
          彼は音楽を好みますか。 
 「好む」はふつうの話しことばではあまり使われないので、初級では出てきません。
そのかわりに「好きだ」のほうがよく使われます。
  感情形容詞は、初級ではこの「ハ・ガ」の形では出されないことが多いようです。
対象をとらず、たんに
          私はとても楽しかったです。
のようにするか、あるいはその対象を主体にして、
          その会はとても楽しかったです。 
のような形で出されます。
 実際に使われる感覚形容詞の「Nが」は、多くの場合「対象」ではなく「部分」で、
次のBの型に入ります。
     私は足が痛いです。(私の足)
  ただし、次のような例は、Aの「対象」の例です。
     私はそのライトがまぶしかった。
  「私には~」とすると、次の「私に」の「主題化」と見なされます。
     そのライトが私にまぶしかった
     私にはそのライトがまぶしかった。

[Bの型:NのN]


  Bの型は3と4の例のように、「Nが」の名詞が「Nは」の名詞に何か密接な関係
のある名詞、例えば体の部分や持ち物、家族などである場合です。形容詞の文に
非常に多く見られる型です。例5は「象の鼻」の「鼻」のほうが取り出された場合です。
これも意外によくある形です。
  B型の「ハ・ガ」文は、上のA型の場合のような、他動詞の「ヲ」に当たるものでは
ありません。「NはNが」の関係は、多く「NのNは」に言いかえることができます。
          あの人の奥さんは外国人です。(←3)
          象の鼻は長いです。(←4)
もちろん、言い表されていることは少し違います。例3・4と、これらの違いは何を主題
としているかの違いです。例3は「あの人」について「奥さんが外国人だ」と述べていま
すが、こちらは「あの人の奥さん」が主題です。動詞文の例を付け加えておきます。
     彼は、奥さんが入院しています。
     彼の奥さんは入院しています。
 例5の類例(「AのB」のBが取り出された例)をもう一つ。
     S社の英和辞書はいいです。
     S社は英和辞書がいいです。(ドイツ語の辞書はよくないです。)
     英和辞書はS社がいいです。(T社はよくないです。)
かっこの中は、頭の中でされる事柄の例です。
  一口に「は・が文」と言っても、以上のように、A型とB型をはっきり区別することが大切
です。A型は、「NのN」にはなりません。
    ×私の足は痛いです。
    ×あなたの中国語はできますか。
 また、次の例は属性形容詞で名詞同士は「彼の足」の関係ですが、「足が速い」全体で
「彼」の属性を述べている(特徴づけている)ので、「彼の足は~」とは言いにくくなります。
つまり、Aの型の例外です。
     彼は足が速いです。
    ?彼の足は速いです。
  名詞文の場合は、A型つまり「Nが」が名詞述語の「対象」になるという型はありませ
んが、前に述べたように、同じ「NのNは」でも述語の名詞に関係するものがあります。
          a  あの人は仕事が生きがいです。
          b  あの人の生きがいは仕事です。
          a  あの投手は速球が武器です。
          b  あの投手の武器は速球です。
 aの「は・が文」は、bのように言うこともできます。もちろんそうすると主題が違います。
  このような文型になる述語名詞は、主題となる「Nは」の名詞の、「重要な側面を表す」
ような名詞に限られます。(その中で「名詞節+が」となれるものは「57.2.11」に例があり
ます)

[ハ・ガ文の動詞文]


  さて、「は・が文」の中の動詞文は、「Nは」を持つ主題文であるという点で、一般の動詞
文とは違った性質を持っています。A型の動詞文の文頭の「Nは」は、名詞文や形容詞文
の「Nは」と同様に、「Nが」にすると、「ほかのNでなく、このNが」という意味をもちます。
          あの人が英語がわかります。
     彼女は子どもが二人あります。
 これらの動詞は状態動詞です。時間の長さに関わらない、ある状態を表します。同じ
「ある」でも、一定の時間内の存在を表す「ある」ではなく、時間に縛られない、所有を表
す「ある」です。
  また、これらの動詞はもともと「に」をとるものです。したがって、「~には」の形にもなり
ますが、初めは「~は~が」の形で教えるのがふつうです。
複文の中の従属節になったり、文末が否定になったりすると、この「に」が出やすくなります。
          あの人に英語がわかるとは思えません。
          私には何もできません。       

[その他のハ・ガ文] 


  上に述べたA・B二つのハ・ガ文のほかに、「NはNが」の形をした文があ
ります。
          1  この絵は私が自分で描きました。
          2  この先生は私が英語を習った先生です。
          3  彼は私が来たので喜んでいました。
  例1の文は、「私が絵を~」の「絵を」が「主題化」によって「絵は」になり、文頭に移動
したものです。主題化についてはすぐ後で少し考えます。
 「主題化」とは考えにくい、次のような例もあります。
          4 このにおいは、ガスがもれていますね。
「ガスのにおい」ではあるのですが、
      ?ガスのにおいがもれていますね。
というのも不自然です。「料理のにおい」ならもれてきてもいいのですが、「ガスのにおい
がもれる」とはすなわち「ガスがもれる」ことですから。
  例2の文は、「複文」で、
          [この先生は[私が英語を習った]先生です]
のような構造を持った文と考えられます。これも「基本述語型」の中の「ハ・ガ文」とは別の
ものです。例3も同様で、
          [彼は[私が来たので]喜んでいました]
のように考えられます。これらは「複文」の中で扱います。

5.3 主題化


5.3.1 主題と文の性質


 さて、これまでどんな文型に「は」が使われるかをもう一度振り返ります。
 まず、名詞文と形容詞文は、
     Nは ~です。
の形が基本であること。そして、ある条件の下で「Nが」が使われること。
 動詞文では、
     Nは/が ~ます。
の形、つまり「は」「が」が半々であり、そこで、動詞文ではどんな場合に「は」が使われる
のかが問題になるということ。
 さらに、「ハ・ガ文」という、一つの文の中で「は」「が」両方が使われ、基本的に主題文
である文が、動詞文・形容詞文・名詞文を通して存在することを述べてきました。
 ここで、「は」が使われるのはどのような文であるのかということを、述語の品詞ではなく、
その文がどのようなことを表しているのかということから考えてみましょう。
 主題文は、主題について「あることを述べる」文ですが、その述べ方に2種類あります。
特殊な用語ですが、「品定め文」と「物語り文」と言います。

5.3.2 品定め文


 一つは、あるものが持っている性質・特徴などを述べる文です。名詞文と、「現象文」
以外の形容詞文はこれです。
     これは私の本です。
     私の家はあれです。
     田中さんは背が高いです。
     私は、今、暇です。
 名詞文・形容詞文は、あるものの状態・性質、他のものとの関係などを述べます。つまり、
あらかじめ話し手の頭の中に、あるものが思い浮かべられ、それについて何かを述べる文
です。ですから、主題を持つのが当然のことになります。ただし、形容詞文の「現象文」は
別です。 
 また、動詞文の中にも同じタイプの文があります。
     彼女は中国語ができます/わかります。
     海水は一定量の塩分を含みます。
     彼は私の従兄弟に当たります。
 次のような「V-ている」の文も同じと言えます。
     地球は太陽のまわりをまわっている。
     この椅子は足が折れている。
 以上のような文を、ちょっと古い言い方ですが、「品定め」をする文、「品定め文」と呼びます。
 品定め文は、基本的に主体を「Nは」で表す主題文です。この主体を「Nが」にすると、「他
のNでなく、このNだけ」という意味合いをもちます。
     これが私の本です。
     私の家があれです。
     田中さんが健康です。
     私が、今、暇です。
 動詞文の場合も同じです。
     彼女が中国語ができます/わかります。
     海水が一定量の塩分を含みます。
     彼が私の従兄弟に当たります。
     地球が太陽のまわりをまわっている。
     この椅子が足が折れている。

5.3.3 物語り文


 もう一つの主題文は、ある時に始まり、ある時に終わることが前提とされているような
事柄を表す文で、動詞文の主題文の多くがこれです。「物語り文」と呼ばれます。
     中島さんはあそこにいます。
          田中さんはさっき帰りました。
          あの人たちは9時まで残業します。
     鍵はこの引き出しにあります。
 「いる」は状態(存在)を表しますが、「食堂はあそこだ」などに比べれば、時間的限定
があると考えられます。
 動詞文は動きを描写するのが本来のはたらきです。事実そのものを描写しようとすれば、
無題文になります。その中のある名詞(多くは主体)について何かを述べれば、主題文に
なります。

[無題文]


 動詞文の「Nが」の主体の文、つまり無題文も同じグループになります。指定の「が」
以外の「Nが」の主体の文は物語り文です。
 物事の進行を表す「V-ている」や、存在を表す「ある・いる」、一時的な状態を表す
形容詞文(現象文)などは、「時間の幅のある」表現ですが、瞬間的な動きを表す動詞
文や、その他の一般的な動詞文とともにこちらのグループに入ります。性質を表して
いるわけではないからです。
     雨が降っています。
     西の空が真っ赤です。
 文を大きく二つに分けて、品定め文と物語り文とするというのは、直接的には「は」と
「が」の使い分けを説明するのに便利だということもありますが、その前に、そもそも
人間が言語を使ってあることを述べようとするとき、その叙述のしかたとして、この二つ
のとらえ方というのが考えられるのではないか、という面もあります。
  つまり、この二分法は日本語に限るものではなく、言語一般に言えることではないか、
と考えられます。
それが、その言語の中ではっきりとした形式上の区別に現れるかどうか(専門的な言い
方では「文法化」されているかどうか、と言います)は別として、ですが。

[主題になる名詞]


 次に、どのような名詞が主題になりうるか考えてみましょう。「0.はじめに」で述べた
ように、文脈、話の流れの中で既に出ている名詞は、「は」で受けられます。
     きのう火事があった。その火事は、・・・。
 それから、名詞文のところでも述べたように、話し手と聞き手、話の現場にある物、
などは「Nは」の形になりやすいものです。
     私は、・・・。これは、・・・。
 また、話し手と聞き手の共通の知識となっている人、物なども主題として「は」をつけ
ることができます。
     (部屋に入ってきて)こんにちは。田中さんは来ていますか。
 それに、当然知っているだろうと思われるような社会的な常識に類する事柄。
     ハンガリーの首都は何と言ったっけ。
 これらのことをひっくるめて言えば、すべて話し手と聞き手が、その名詞のことを共通
に知っているような名詞です。
  そのような名詞を主題としてたてて、それについてあることを述べるのが主題文です。

[補語の主題化]


 物語り文は、無題文と主題文に分かれます。この主題文は、品定め文のように性質や
特徴を述べる文ではなく、発話の場面あるいは文脈の中で出ている名詞を取り上げて
主題とし、その状態や動きを描写したものです。そこで、例えば、物語り文の主体「Nが」
を主題「Nは」とすることを「主題化」と言うわけです。
  この「は」と「が」の違いについては、名詞文・形容詞文・動詞文のそれぞれの所で述
べてきました。名詞文・形容詞文では、「は」のある主題文が基本です。「が」は多少とも
特別な場合に使われます。
 しかし、動詞文ではそうではありません。むしろ、「が」の使われている無題文の方が
基本で、主題文は無題文のある補語を「主題化」したものだ、と考えるのがふつうです。
  補語を主題として取り上げることを「主題化」ということは、存在文のところでほんの少
し触れました。例えば、
          「部屋の真ん中に机があります」
          「机の上には何がありますか」
の後の文の「机の上には」は、前の文で「机」が出され、それから連想される「机の上」
が後の文の主題として取り上げられたものです。このことを、場所を表わす補語「机の
上に」が「主題化」されたと言います。     
  他の補語、「Nが」や「Nを・Nへ」なども主題化できます。というより、これまで動詞文
で「ハとガ」の問題として説明してきたことは、「Nが」の主題化の問題だったのです。
「Nが」が主題化されると、「が」が消えて「は」になるわけです。上の例の「には」とは
違って、「×がは」とはなりません。
  「を」も消えます。
          「そこの箱を片付けてください」
          「この箱はどこに置きますか」(×この箱をは)
の後の文の「この箱は」は、「(私は)どこにこの箱を置きますか」の「この箱を」が主題
化されたものです。
  次の例は、「~は~が」の形になっていますが、
          この絵は私が自分で描きました。
これは「この絵を」の主題化です。(私がこの絵を描きました)
  他の格助詞「へ・から・まで・で・と」では、格助詞のあとに「は」が付けられます。
          郵便局へは行きました。銀行へは行きませんでした。
          京都からは田中さんが来ました。
          イギリスまではちょっと遠いです。
          この店では日本語の教科書も扱います。
          あの人とはあまり親しくないです。
 

5.3.4 主題の機能


  では、このような(動詞文の)主題化はいったい何のためになされるのでしょうか。
それを考えてみましょう。
 初級のはじめの頃の会話を例に考えてみましょう。話し手と聞き手について、身の
回りの物・人について、あるいは、日時や天候について、ほとんどが主題文を連ねて
会話が進行します。
     「田中さん、あの人は誰ですか。」
     「え?どの人ですか。」
     「あの、青いシャツの人ですよ。」
     「ああ、あれは岡野さんです。出版社の社長さんです。加藤さんの知り合いですよ。」
     「はあ、そうですか。」
     「このケーキはおいしいですねえ。もう食べてみましたか。」
     「いえ、まだです。」
 主題の省略があるので、「Nは」のない文も多いですが、「そうですか」のようなものを
のぞけば、みな主題文です。
     「こんにちは。お元気ですか。」
     「ああ、こんにちは。いい天気ですね。」
     「最近、忙しいですか。」
     「ええ、年末は忙しいですね。」
 会話は、基本的には情報のやりとりです。あいさつの後は、疑問文を使って相手
から情報を引き出したり、それに答えて相手に情報を与えたりします。
 一方、無題文は新たな文脈を作り出します。上の会話の続きです。
     「昨日、佐藤さんから電話がありました。」
     「へえ、ひさしぶりですね。」
     「先月、病気で入院したそうですよ。」
 「佐藤さん」が主題化されて、この後の話題の中心になっていきます。
 「は」の役割は、ある名詞を主題として取り上げ、それについて何かを述べること、
話の流れの中でその流れを続けるか、あるいはその場にあるものを取り上げて、話
の流れに新たに乗せること、とでも言えばいいでしょうか。そうすることによって、話
がこま切れの文の単なる集まりではなく、まとまりを持ったものになるのです。
 他の「Nへ」「Nに」「Nで」「Nから」「Nより」などの主題化も基本的には同じことが
言えます。
  それに対して、「が」の役割は、物事をそのまま描写して、新たな場面を提示する
ことにあります。少し強く言えば、話の流れを切る、あるいは転じる働きがあります。
話の初めに「が」の文が使われると、その状況の描写になり、そこから新たに主題を
作るきっかけになります。
  この「話の流れ」ということについては、「61.情報のつながり」でもう一度とりあげる
ことにします。
 では、品定め文の場合、主題文であることはどういう役割をもつのでしょうか。
動詞文での「は」と「が」の対立は、話の流れの中で重要な役割がありました。
名詞文などの主題文は、その話の流れの中でその主題となる名詞について、
話の流れとは少し離れて注釈をつけるような役割を果たしたりします。
このことも「61.情報のつながり」で述べることにします。 
 「主題-解説」の文は、大きく二つに分けられます。
                               
       主題  -  解説
              
 それに対して、無題文は全体が一つのまとまりとなっています。
     
       あることの記述
     

5.4 副題の「は」


 さて、これまでは一つの文の中に一つの「は」しか出てこない例だけを扱ってき
ました。実際には一文の中に二つ以上の「は」が使われることは珍しくありません。
その場合について考えて見ましょう。
     私は日本酒はよく飲みます。
     (私は)ウイスキーはあまり飲みません。
     私はお酒はきらいです。
 このような文、一つの述語が「Nは」の形の二つの補語を取っているような文で、
二つめの「Nは」を「副題」と呼びます。ふつうは主体の名詞が「主題」となり、その
他の名詞が「副題」となります。副題は「対比」の意味合いが強くなります。
 主題は話の流れの中で、それについて何か述べるために取り上げられた名詞で
すが、その意味では副題のほうが話の中心になります。いわば、「話題」となります。
 例えば、
     私はウイスキーはあまり飲みません。
という文は、「私」について、「ウイスキーをあまり飲まないこと」を述べた文ですが、
また一方では、「ウイスキー」について、「私があまり飲まないこと」を述べた文でも
あります。どちらが話の流れの中心にあるかといえば、ふつうは後者でしょう。「私」
が他の誰かと対比されて、それについて述べるよりも、「ウイスキー」が他の飲み物
と対比されて、それについて語られている文脈で多く使われる文です。もちろん、
「私」を特に強く言ったり、はっきり誰かと対比される文脈にあれば別ですが。
     日曜日には難しい本は読みません。
     難しい本は日曜日には読みません。
 「は」が二つありますが、その上に主体の「私は」が省略されていると考えると、
三つの「は」があることになります。
     私は、日曜日には難しい本は読みません。
          私は、難しい本は日曜日には読みません。
 さて、この文はどのような文脈で使われ、何が「話題」となっているのでしょうか。
     「先生のような、研究一筋の方は、日曜日にも難しい本を読んでいらっしゃる
     のですか。」
     「いやあ、そういう人もいるかもしれませんが、私は~。」
という文脈を考えてみましょう。まず、「私」について述べている文です。つまり、「私」
が主題の文です。そして、「日曜日」がいちばん対比的な意味を持っています。他の
日に「難しい本を読む」のは前提となっています。言い換えると、「~ません」という否
定の焦点になっているのは、「日曜日には」です。「日曜日には~ません」がこの文の
伝えたいことで、何が「~ません」なのかというと、「私が難しい本を読むこと」です。
「日曜日には軽い本を読む(難しい本は読まない)」ということもあるでしょうが、それは
この質問者の聞きたいことではないでしょう。
 また、次のような文、二つの節が構造的に対比されていて、それぞれの「Nは」が主題
と見なせる文もあります。
     雨は降っていますが、雪は降っていません。
 この場合は「雨と雪」がセットになっていて、一つの主題となっていると考えるべきでしょう。
     「太郎と花子はそれからどうなりましたか。」
     「太郎は小説家に(なりましたが)、花子は画家になりました。」
 初めの文で「太郎と花子」が主題だったのですから、答えの文でも「太郎」と「花子」の
どちらも主題だと考えるのが一貫した説明になります。
 「雨と雪」の例で、これらの「は」は「対照」という用法で、「主題」ではない、とする分析
がありますが、(そして、比較的有力なようですが、)感心しません。
 形容詞文の「Nに」や「Nと」などに「は」がつくことがあります。
     あの先生は若い女性にはやさしい。
 この「には」も「副題のハ」です。

 5.5 ハの省略   


 話しことばでは、「は・が・を・へ」などの助詞が省略されることがよくあります。
     「太郎、どこ行った?」「学校行ったよ」
     「雨、降ってきたよ」「あ、洗濯物しまわなくちゃ!」
  それぞれ、「太郎は」「学校へ」「雨が」「洗濯物を」の助詞が省略されたものと考え
られます。
 このような、容易に助詞を推定できる場合はいいのですが、特に「は」も  「が」も入
れにくい場合があり、文法研究の問題点となります。
 例えば、
     はさみ、ある?
     この店、おいしいんだ。
          ぼく、さびしいな。
などの例では、「が」はもちろん「は」も入りにくく、入れると微妙に意味合いが変わって
しまいます。
 難しい問題ですが、いちおう「は」の省略として考えておきます。

5.6 主題を示す助詞 


 「は」以外にも主題を示すとされる助詞があります。以下でそれをかんたんに見てみます。

[Nなら]


  相手のことばや状況を受けて、ある名詞を主題にとりあげます。
 条件表現の「Nなら」と隣り合わせの表現です。「は」でも言えますが、そうすると、相手
の言葉を受けているという面が弱くなります。
     「田中さんはどこですか」「田中さんなら、食堂ですよ」
     この問題なら、私に任せて下さい。

[Nって]


 かなりくだけた話しことばに限られます。「~というのは」と言い換えられます。
つまり、「は」にかなり近く、それに「という」が加わります。「という」の「知らないもの
の解説をする/求める」という意味合いがかぶさる場合があります。また、よく知ら
れているものを、改めてとりあげて注目させる、という面もあります。
          漢字って、面白いものですね。
          佐藤さんて、変な人ね。
     この、「主題化」って、どういう意味ですか。
          僕って何?
 「僕は何?」とは言いにくいでしょう。これは、「僕」というわかりきっているはずの
ことばを改めてとりあげるために「という」の意味合いを利用しているのでしょう。

[Nったら]


  これも話しことばに限られます。事柄の意外性と、その主体にたいする軽い非難
などの気持ちがあります。
     幸子ったら、野菜は食べないんだ。
     弘ったらこんなこと言うんだよ。 

[Nといえば]

 
 少し硬い言い方です。文脈に登場した事柄をとりあげて、新しく話題にする場合に
使われます。
          佐藤さんと言えば、まだジョギングやっているかなあ。
     加藤さんと言えば、お嬢さんはもう高校卒業だね。
 以上の助詞は、「は」と違って、主題を示すために一般的に使われる助詞ではあり
ません。それぞれ何らかの意味合いがあり、使用範囲が狭められるためです。

はずだ・に違いない・に決まっているの違い

 「はずだ・にちがいない」について、いくつかの分析を紹介します。

�� 三枝・中西(2003)
p.20
 「にちがいない」「にきまっている」は、直感をもとにした推測を表す。

 「はずだ」「にちがいない」は、ともに推測を表すが、「はずだ」は確かな根拠を
もとにした推測で、「にちがいない」は直感をもとにした推測である。
 確かな根拠とは、計算・論理的思考の結果、過去の経験などである。

練習13
 1.この地域は、条例によって20メートル以上の建物は建てられない~
 2.学生:機能はエアコンの音がうるさくて勉強できませんでした。
   管理人:今日修理してもらったから、もう静か~ですよ。
 3.あっ、空が曇ってきたな。夕立が来る~よ。
 4.あの男が犯人~。証拠はないが、何となくそんな感じがするんだ。

�� 森山・安達(1996)
p.31
  あそこで先生と話している女の子が彼の妹に違いない。
  母は若いころ苦労したに違いない。
14-1「に違いない」は、確かなことはわからないが、そうだと決めつけるという意味
 である。
   もうこんな時間か。高山さんは約束を忘れてしまったに違いない。
   彼はよく勉強したに違いない。今日の発表は面白かった。
14-2「に違いない」は、自分の考えを整理して述べるというような使い方がふつうで
 ある。そこで、質問に対する応答の文では使いにくい。
   「田中君は今日来ますか?」「×はい、来るに違いありません」
      cf.「はい、くるかもしれません」「はい、来るはずです」
��以下略)
p.36
16-1「はずだ」は、論理的な推理によって導き出した結論を表す。
   彼はさっきまでここにいた。まだそんなに遠くには行っていないはずだ。ちょ
   っと遅れるかもしれないと言っておいたから、まだ待ってくれているはずです。
6-2 自分が確かだと思っていたことに反する情報が得られたときにしばしば使われる。
   「急いで。先生はもういらっしゃっているよ」「えっ。約束は1時のはずだけど」
    おかしいなあ。この喫茶店にいるはずなんですけどね。
16-3 相手が知っているべきことを忘れている場合に、それを思い出させる用法がある。
  当然覚えているべきだということを強調することになる。
    昨日、君には、集合時間を言っておいたはずですよ。
��以下略)
�� グループ・ジャマシイ(1998)
p.220
ちがいない
 (1)あんなすばらしい車に乗っているのだから、あの人は金持ちにちがいない。
 (6)A:この足跡は?
   B:あの男のものだ。犯人はあいつに違いない。   
 何らかの根拠に基づいて、話し手が強く確信していることを表す。「だろう」に比
べて話し手がもつ確信の度合い、思いこみの度合いが高い。書きことばではよく使う
が、日常会話では、大げさに響く傾向があり、(6)のような特殊な状況以外では、「き
っと...と思います」などの表現を用いる。 
p.500
はずだ
 話し手がなんらかの根拠に基づいて、当然そうであると考えたことを述べる場合に
用いる。判断の根拠は論理的に筋道の追えるものでなければならない。従って、次の
ような場合には用いることができない。
��誤)めがねが見つからない。またどこかに置き忘れたはずだ。
��正)めがねが見つからない。またどこかに置き忘れたんだ。
�� 庵他(2000)
p.126
 「はずだ」は自分の考えで確信していることがらを表す表現です。
   部屋のかぎはおそらく田中君が持っているはずだ。
 よく似た意味を表す表現に「にちがいない」があります。
   森田さんは家にいるにちがいありません。
   彼女はきっと留守にちがいない。
p.127
 「はずだ」は論理的に考えた結果得られた確信を表すのが基本です。
   朝子は弁護士だから、法律に詳しいはずだ。
 そのため、(8)のように、思考の結果の確信と現実とが食い違う場合にも用いること
ができますし、(9)のように、以前から知っていた現実のことがらの理由や背景を知っ
て論理的に納得したという場合にも用いられます。
   (8)朝子は弁護士だから法律に詳しいはずなのに、憲法さえろくに知らない。
   (9)A:夕子さんは弁護士なんだって。
     B:そう、道理で法律に詳しいはずだね。
 このような場合「にちがいない」は使えません。
 一方、「にちがいない」は直感的な確信も表すことができますが、「はずだ」はで
きません。
   彼を一目見て親切な人にちがいないと思った。
  ×彼を一目見て親切な人のはずだと思った。
 以上のような性格から「にちがいない」は主観的な思いこみというニュアンスを帯
びやすいので、客観的な述べ方が必要な場合は「はずだ」のほうが適切です。
   (論説文)以上のデータから考えると、この町の人口は今後も増え続ける
   {○はずである/?にちがいない}。
�� 日本語記述文法研究会(2003)
p.158
 「にちがいない」は、断定はできないが、その判断が間違いのないものとして確信
されるという意味を表す。
  ・あの人は、いい背広を着ていい車に乗っている。きっと金持ちにちがいない。
  ・最近、山本はとても機嫌がいい。何かいいことがあったにちがいない。
これらの例のように、何らかの根拠に基づいて推論を組み立てる場合が多い。
 名詞に接続する「にちがいない」には、事実を再確認する用法がある。
  ・さっき確認しましたが、この件の責任者はその人にちがいありません。
  ・確かに、あの人は優秀な学者にはちがいない。だが、誠実な人間であるとは言
えない。
これらは、確信的な判断を表すものではなく、すでに知られている事実について、
「そのことに間違いはない」と追認する用法である。
��以下略)
 推論を経ていない場合や直観的な判断を述べるような場合には、「にちがいない」
より「にきまっている」を用いるのが自然である。
  ・宝くじを買ったって、どうせ当たらない{?にちがいない/にきまっている}。
p.161
 「はずだ」は、基本的に、何らかの根拠によって、話し手がその事柄の成立・存在
を当然視しているということを表す。次の例のような、論理的推論を表す用法が、認
識のモダリティとしては基本的である。
  ・山本はぼくより2つ下だから、今年で30になるはずだ。
  ・佐藤はタバコは吸わないから、禁煙席にいるはずだ。
 また、次のような例は、記憶の中の事柄を再確認することによって、その事柄を当
然視する用法である。
  ・たしか、田中さんのところの赤ちゃんは、女の子のはずです。
 「はずだ」の文は、「本来はこうである」ということに加えて、「現実はそうでな
い」ということを意味することがある。過去形をとったり、逆接表現を伴ったりした
場合には、そうした意味になりやすい。
  ・雨が降らなければ、今日は決勝戦が行われるはずでした。
  ・このボタンを押せば録画できるはずなのだが。
��以下略)
 論理的推論を表す用法でのみ、「にちがいない」と置き換えが可能になる。
  ・その荷物は先週に送ったのだから、もう着いている{はずだ/にちがいない}。
ただし、推論の帰結が話し手にとって自明のことである場合には、置き換えにくくな
る。
  ・山本はぼくより2つ下だから、今年で30になる{はずだ/*にちがいない}。
�� 吉川編(2003)『形式名詞がこれでわかる』ひつじ書房
「はず」まとめ     p.170
  「はず」は予定・道理・当然の意を含んだ確信の強い推量を表す。
 1 現在形+はずだ
  ◎ある条件の下では、そういう状態が出現する、と話し手が判断していることを表す。
    変化動詞   カルテを患者が医師に提示できるようになれば、診断も正確にな
           るはずだ。 
    可能動詞   日本語教師なら、答えられるはずだ。
    存在を表す動詞 この種の機械にはマニュアルがあるはずだが。
    Vたい     選手は体がだめになるまで、現役を続けたいはずだ。
  ◎《納得》前もって頭の中で分析的に考えて仮定したことが実際に目で見た現実によ
       って裏付けられ、真相が納得できたということを表す。
           どおりで寒いはずだよ。ほら見て、外には雪が降っている。
           そりゃ負けるはずだ。相手は元五輪選手だったんだって。
 2 現在形+はずだった
  ◎予定、計画、約束は存在したが、自らの意志でコントロールできない障害により、
   果たされなかった、または大幅に狂ってしまったことを表す。
      約束ではもっと早く訪問するはずだったのだが、渋滞で遅れてしまった。
 3 過去形+はずだ
  ◎過去のこと、完了したことについての確信の強い推量を表す。
      父の少ない給料から月々のローンを払うのは楽ではなかったはずだ。
  ◎反事実仮想の帰結を強調する。
      猛暑で十万羽の鶏が死んだ。夕方温度が下がれば、もう少し助かったはずだ。
 4 過去形+はずだった
  ◎過去に下した判断と現状との間に生じている食い違いを強調する。
       みんなでずいぶん写真を写したはずだった。しかし、今になると、もっと
       写しておけばよかったなどと、思ってしまう。
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2011年1月23日日曜日

手紙の基礎知識 時候の挨拶

手紙の中で頭語のあとにくるのが時候の挨拶です。
季節感あふれる時候の挨拶をご紹介します。

1月
  • 寒さもいっそう身にしみる昨今ですが、
  • 寒中とはいえ、ここ数日はあたたかい日が続いておりますが、
  • 各地の大雪のニュースを見聞きするにつけ、ますます春の訪れが待たれる昨今ですが、
2月
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